来年は36回目のパリ・ダカ挑戦。菅原義正氏をとらえて離さないトラックの魅力とは?【クルマ塾】

【もともと耐久レースが好きだった】

さて、それでは私自身がなんでパリ・ダカに魅せられたかという話をします。いまから50年くらい前になるんですけども、はじめは日本のサーキットでレースをしてました。コンクリの上ですね。どっちかというと、長い競技が好きだったんで、富士1000kmとか鈴鹿12時間とか耐久レースといいた耐久レースに出てました。

そしたらある時、雑誌にパリ・ダカールっていう競技があるってことが、いまみたいに映像なんかない時代ですから、ほんのちらっと、写真もなにもなくて出てたんですね。それを読んだときに、自分は1000km走っても、12時間走っても同じところに帰ってくるけど、パリからダカールまで約1万キロも走っちゃうということに非常にひかれたんですね。

それでパスポートを持ってって、どこでスタンプを押すのかとか、当時はフランとかペセタとか国によってお金が全部変わりましたから、お金はどこで両替しなきゃいけないのかとか考えながら、単純な気持ちでやってみることにしたんです。

【フランス語を燃料タンクにマジックで書いた】

ところが、お金がないんですね。それで、私は4輪の選手なんですけども、オートバイはかなり安いお金でエントリーすることができたんで、バイクで出ることにしました。1983年のことです。

最初に36番ってゼッケンもらって、これはフランス語で「トラントシス」って発音するんですが、そのフランス語が分からないんですよ。それでマジックインキで燃料タンクの上に「トラントシス」てカタカナで書いて、呼ばれたら返事しようと思ってたんですけど、ヒアリングが悪くて周りの言ってることがぜんぜんわからない。困ってたら隣の人から「おまえだぞ」っていわれてあわててリュック背負っていくような有様でした。

それで、日本じゃ石の上にも3年っていいますけど、これをやるにはなんとしても10年かかるなと思いまして、10年やることに決めました。それでバイクで2年やったら、3年目にチャンスが訪れました。皆さんご存知だと思うんですけど、夏木陽介さんって、今年亡くなったんですが、彼から声がかかったんです。彼はパジェロに乗ってたんですが、そのナビゲーターにならないかって言われて、それで4輪に転向しました。

次の年、夏木さんは自分のチームを作られたんで、僕は僕で自分のチームを作ることにしました。そこから結局7年、パジェロで走りました。

この記事の著者

角田伸幸 近影

角田伸幸

1963年、群馬県のプロレタリアートの家庭に生まれる(笑)。富士重工の新米工員だった父親がスバル360の開発に立ち会っためぐり合わせか、その息子も昭和期によくいた「走っている車の名前が全部言える子供」として育つ。
上京して社会人になるも車以上に情熱を注げる対象が見つけられず、自動車メディアを転々。「ベストカー」「XaCAR」で副編集長を務めたのち、ポリフォニー・デジタルにてPlayStation用ソフトウェア「グランツーリスモ」シリーズのテキストライティングに携わる。すでに老境に至るも新しモノ好きで、CASEやパワートレインの行方に興味津々。日本ディープラーニング協会ジェネラリスト検定取得。大好物は豚ホルモン(ガツとカシラ)。
続きを見る
閉じる