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【もともと耐久レースが好きだった】
さて、それでは私自身がなんでパリ・ダカに魅せられたかという話をします。いまから50年くらい前になるんですけども、はじめは日本のサーキットでレースをしてました。コンクリの上ですね。どっちかというと、長い競技が好きだったんで、富士1000kmとか鈴鹿12時間とか耐久レースといいた耐久レースに出てました。
そしたらある時、雑誌にパリ・ダカールっていう競技があるってことが、いまみたいに映像なんかない時代ですから、ほんのちらっと、写真もなにもなくて出てたんですね。それを読んだときに、自分は1000km走っても、12時間走っても同じところに帰ってくるけど、パリからダカールまで約1万キロも走っちゃうということに非常にひかれたんですね。
それでパスポートを持ってって、どこでスタンプを押すのかとか、当時はフランとかペセタとか国によってお金が全部変わりましたから、お金はどこで両替しなきゃいけないのかとか考えながら、単純な気持ちでやってみることにしたんです。
【フランス語を燃料タンクにマジックで書いた】
ところが、お金がないんですね。それで、私は4輪の選手なんですけども、オートバイはかなり安いお金でエントリーすることができたんで、バイクで出ることにしました。1983年のことです。
最初に36番ってゼッケンもらって、これはフランス語で「トラントシス」って発音するんですが、そのフランス語が分からないんですよ。それでマジックインキで燃料タンクの上に「トラントシス」てカタカナで書いて、呼ばれたら返事しようと思ってたんですけど、ヒアリングが悪くて周りの言ってることがぜんぜんわからない。困ってたら隣の人から「おまえだぞ」っていわれてあわててリュック背負っていくような有様でした。
それで、日本じゃ石の上にも3年っていいますけど、これをやるにはなんとしても10年かかるなと思いまして、10年やることに決めました。それでバイクで2年やったら、3年目にチャンスが訪れました。皆さんご存知だと思うんですけど、夏木陽介さんって、今年亡くなったんですが、彼から声がかかったんです。彼はパジェロに乗ってたんですが、そのナビゲーターにならないかって言われて、それで4輪に転向しました。
次の年、夏木さんは自分のチームを作られたんで、僕は僕で自分のチームを作ることにしました。そこから結局7年、パジェロで走りました。