来年は36回目のパリ・ダカ挑戦。菅原義正氏をとらえて離さないトラックの魅力とは?【クルマ塾】

【ヨーロッパ初の飛行機はル・マンで飛んだ】

実は彼がスポンサーになって、飛行機を発明したライト兄弟のお兄さんのほう、ウィルバー・ライトという人なんですけど、その人をニューヨークからフランスに呼ぶんですね。それで地元のル・マンで飛行機に乗ってもらうんですが、これが初めてヨーロッパを飛行機が飛んだ記録なんです。

当時のルマンは、林ばかりで滑走路もないわけですが、どうやって飛行機を飛ばしたかというと、広い競馬場を使ったんですね。

いまじゃフランスにはエアバスがあって、ドイツもロシアも飛行機すごいの持ってますが、飛行機が一番最初にとんだというのがル・マンなんです。ボレーという人がスポンサーになっていなければ、ちょっと時期的に遅れたかもしれませんね。

最初の自動車レースに話を戻すと、ガソリンエンジン自動車が出した最高速度は、平たん地でも時速40kmに達しなかったそうです。このとき優勝したのは、パナール・ルヴァッソールというクルマです。このクルマ、調べてみると日本人が初めて見た自動車なんですね。いえ優勝したクルマじゃないですよ。それとは別のクルマをフランス人の技師が船に積んで日本にもってきたんです。日本人がはじめてクルマを目にしたのがパナール・ルヴァッソールというフランス製のクルマだったって、これもおもしろいなと思いました。

【1907年、パリから北京まで走るレースがあった】

この頃のレースですが、当時はサーキットなんかありませんから一般の道しか走れないですよね。そんな中、最初のレースからたった12年しか経ってない1907年に、すごいことが起こるんですよ。

我々もそれから80年後にレンジャーで出たんですけど、とにかく1907年に、北京を出発してパリまで走ろうっていう競技、全行程1万6000kmの競技が始まりました。1位は60日間かかって走ったそうです。で、2位は20日遅れて走ってきたそうです。主催者はどういうふうに管理していたんでしょうね。事務局開けてても20日待たなきゃいけないわけですからね(笑)。そんな面白い、ロマンに満ちたような競技が行われました。

しかしこうした競技をやってるのはほとんどフランスなんですね。なんでかというと、当時の歴史調べると、ベンツなんかもクルマをその後いっぱい売るんですけど、一番買ってるのはフランスなんです。ですからフランスにはいかに貴族がいたかということです。クルマが好きな貴族がいたんですね。

【もっと長距離を走ったニューヨーク・パリのレース】

それで、もっとびっくりするのがその翌年なんです。1908年ですから日本でいうと明治41年。ニューヨークのタイムズスクエアを出発しましてサンフランシスコまで、東から西へアメリカ大陸を横断して、そこから船に乗りました。それで2月12日にニューヨークをスタートして、5月13日に日本の神戸に着いてるんですね。当時の日本人は下駄はいたりしてて、そんなところに自動車が走ってきたんでびっくりしたでしょうね(笑)。

一行は京都オリエンタルホテルというところに泊まって、そこからたぶん敦賀のあたりから船にのってウラジオストックへ渡ってます。それでウラジオストックからまたずっと西のほうへ走って、モスクワを通ってパリまで行ってるんですね。合計2万kmを5カ月かかってゴールしたっていってます。当時はサーキットってないですから、そういうことで自動車の競技が始まったんですね。

この記事の著者

角田伸幸 近影

角田伸幸

1963年、群馬県のプロレタリアートの家庭に生まれる(笑)。富士重工の新米工員だった父親がスバル360の開発に立ち会っためぐり合わせか、その息子も昭和期によくいた「走っている車の名前が全部言える子供」として育つ。
上京して社会人になるも車以上に情熱を注げる対象が見つけられず、自動車メディアを転々。「ベストカー」「XaCAR」で副編集長を務めたのち、ポリフォニー・デジタルにてPlayStation用ソフトウェア「グランツーリスモ」シリーズのテキストライティングに携わる。すでに老境に至るも新しモノ好きで、CASEやパワートレインの行方に興味津々。日本ディープラーニング協会ジェネラリスト検定取得。大好物は豚ホルモン(ガツとカシラ)。
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