ライダー・国さん誕生の生き証人、山口京一に聞いた「国坊」の始まり【高橋国光さんを偲んで】

■18歳の国坊(国さん)は天才的なライダーだった

●国さんはとにかく真面目、好青年! by 山口京一

国さんお別れの会
国さんのヘルメットカラーで飾られた祭壇

2022年3月16日、惜しくも82歳で逝去された日本一のレジェンドレーシングドライバー・国さんこと高橋国光さん(※正確には「高」ははしごだか、「国」は旧字体)。

11月21日(月)に東京・ウェスティンホテル東京で行われた「お別れの会」には、レース業界、自動車業界、メディア、またファンの方々が多数、献花に足を運びました。

国さんお別れの会
山口京一さんは、まさに国さんのライダー時代からの生き証人

その中には、私たちメディアの大先輩、日本自動車ジャーナリスト協会・名誉会員(2名しかいない!)の山口京一さんの姿も。

山京さん(と呼ばせてください!)は1933年生まれ、国さんは1940年生まれ。そう、山京さんのほうが国さんより年上なんです!

モータースポーツにも造詣の深い山京さん、きっと数々の逸話がうかがえそう♪ ということで、国さんとの思い出を語っていただきました。


●BSAオフィシャルライダーに国さんを抜擢

国さんお別れの会
2輪時代の国さん

国さんとの出会いはね、1958年。その頃私は、BMWとBSA(バーミンガム・スモール・アームズ)というイギリスブランドバイクのインポーターみたいなことをやっていました。

そのBSAが、国内のクラブマンズレースに出るということに。でも、テストでメカニックを乗せたら簡単にクラッシュして終わり。困ったなぁ…と、オフィシャルライダーを探していた。

国さんお別れの会
国さんが亡くなられた令和四年三月十六日付で旭日小綬章を追贈されました

そんなとき、「恐ろしく速い18歳のライダーが浅間火山レースに出る!」ということで、さっそく見に行ったんです。そのライダーが、高橋国光。もう本当に速かった!

その足で御父上に頼みに行きましたね、未成年だったから。

●真面目な高橋国光×BSA、悪ガキの伊藤史朗×BMW。正反対のライバル誕生!

国さんお別れの会
2輪時代の国さん

片や、BMWには伊藤史朗(いとう ふみお)さんというライダーが乗りました。彼も18歳で物凄く速いライダーだったけど、国さんとは全く逆な悪ガキでね。

当時から国坊は(当時は国さんではなく[くにぼう]と呼んでいた)、「何時に浅間に来いよ」というと、パッと来てサッと帰る。まことに素直で、しかもバイクに乗せれば天下一品!

いい青年の国坊と、悪ガキの伊藤。国坊×BSA、伊藤×BMW。国坊と伊藤は、車両は違うけど、正反対のふたりが同じチームで戦った。

国さんお別れの会
日本のモータースポーツの発展に長年に渡り貢献した功績により「スポーツ功労者顕彰」を2020年に受章

国さんは天才的になんでも乗りこなす、しかも性格だって物凄くいい。片や伊藤は…ウ~ン! このふたりはなかなか面白いコントラストだったね。

18歳の時に突然起用して速かった国坊は、ホントに天才的に速かった。

当時、BSA本社から入れたマシンだったけど、セッティングに関して彼はあまり気にしなかった。「ギヤリングとか何か注文はあるか?」と聞いても、「このままで大丈夫」と。

●チームオーダーにボクはチームを辞めたけど国さんは…

国さんお別れの会
マン島での時代までお話が聞けませんでした(涙)

1959年の浅間火山レース、これはメーカー対向の500ccレース。同じチームの中でBSAの国さんとBMWの伊藤さん、このふたりを戦わせた。

しかし、本社の人間は「収益の高いほうを勝たせる」とチームオーダーが出された。当然、1台あたりの収益が高いのはBMW。「そんなのはレースじゃない!」と私は会社を辞めてしまったんです。

国さんお別れの会
マン島での瀕死の事故。当時のことをサラッとお話してくださったこともあります

でも、そのレースは観に行った。国坊と伊藤さんは全力で戦っていた。それで、伊藤が1位、高橋が2位。

私のチームは、そんなライバルのふたりを抱えていたんです。

●天才ライダー・高橋をワークスとして“もってっちゃった”ホンダ

国さんお別れの会
ホンダワークスで乗ったバイクもお別れの会会場に展示

1959年にホンダの二代目社長で当時の研究所所長の河島喜好(かわしま きよし)さんと、レースの担当の方が浅間火山レースを見に来たとき、河島さんが…。

「あの高橋国光って速いね!」と。

国さんお別れの会
ホンダワークスで挑んだ西ドイツGPで優勝!

そして翌60年、あっという間に国さんをスカウトし、ホンダに“もっていかれた”! まぁ、60年にはウチはもうレースやっていなかったけどね。

国さんお別れの会
ホンダワークスで挑んだ西ドイツGPで優勝!

その後、ホンダ×国さんは1960年から世界GPに参戦、そして1961年西ドイツGP(※当時)で日本人初の優勝者となった。

伊藤はBMWの前に乗っていたヤマハに戻って優勝。その後、この国さん×ホンダVS.伊藤さん×ヤマハ、このふたりの鈴鹿の接戦というのも物凄かったね。

そんな時代を共にしたずーっと後、私が国さんと会った時、「山口さん、もう50年前ですね! この次に会うのは60年かな!」とか言ってね。


というところで、残念ながら山京さんインタビューは時間切れ。国さんのライダー時代のほんのサワリをお聞きしただけです。この先は、また次の機会に!

(語り:山口 京一/文:永光 やすの/画像:AUTOSPORT誌、Racing on誌、永光 やすの)

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この記事の著者

永光やすの 近影

永光やすの

「ジェミニZZ/Rに乗る女」としてOPTION誌取材を受けたのをきっかけに、1987年より10年ほど編集部に在籍、Dai稲田の世話役となる。1992年式BNR32 GT-Rを購入後、「OPT女帝やすのGT-R日記」と題しステップアップ~ゴマメも含めレポート。
Rのローン終了後、フリーライターに転向。AMKREAD DRAGオフィシャルレポートや、頭文字D・湾岸MidNight・ナニワトモアレ等、講談社系車漫画のガイドブックを執筆。clicccarでは1981年から続くOPTION誌バックナンバーを紹介する「PlayBack the OPTION」、清水和夫・大井貴之・井出有治さんのアシスト等を担当。
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