国さんおめでとう!日本レース界のレジェンド高橋国光さんが、スポーツ功労者として文科省より顕彰!!【熊谷睦・特別寄稿】

■高橋国光氏、スポーツ功労者として文部科学省に顕彰される

●元AUTO SPORT誌『迷物?』編集長・熊谷 睦さんが語る『国さん伝説』

高橋国光、1940年1月29日生まれ。
『みずがめ座&血液B型』という共通項を知っただけで、自分もレーシング・ドライバーになれると思い込んだ私。

国さんと熊さん
10年ほど前のとある年末パーティでの、高橋国光さん(右)と熊谷睦さん(左)の2ショット。どんな人にも気を遣ってくれるのが人気です。

国光選手の立身出世物語は、「走れ、クニミツ」(高桐唯詩・著)で熟読していただくとして、ここでは大昔の取材ノートを紐解いてみたい。

走れ、クニミツ
不世出の名レーサー、高橋国光のレース生活40周年を記念して平成10年に高桐唯詩氏が上梓した力作『走れ、クニミツ 小説 高橋国光物語』。現在『レースとクルマの電子書店・ASB電子雑誌書店』にて電子版として取り扱い中です。

強烈なインパクトは1977年の全日本F2000選手権開幕戦の鈴鹿ビッグ2&4レース。2番手以下を15秒ちかく引き離して優勝直前の最終ラップ。鈴鹿サーキット130Rコーナー手前のバックストレッチで1台が大クラッシュ。国光選手は現場で車両を止めて負傷者救出に参加したのである。

結果だけを見れば、レースは赤旗中断終了となり、規則的にも「前周の着順が正式結果」なのだから国光選手は当然優勝。

しかし、優勝目前の最終ラップ、それもバックストレッチで敢えて急停車し負傷者の救助に努めたことに「レーシング・ドライバーは何があろうが勝利を目指すのが当然」という、それまでのドライバー=勝負師というイメージが一変した。

AUTOSPORT誌1975年6月1日号
スーパーシルエットの前身となるターボ搭載車両。その速さは驚異的でした。(AUTOSPORT誌1975年6月1日号表紙)

これより数年前「ワークス・ドライバーの生き様」について私がインタビューした時、国光選手は…。

「ワークス車両なんて安全性は無視。ロールバーも剛性より軽量化が追求され、もし転倒してケガすれば悪いのは運転手という考え」
「直6の2000ccエンジンが1万回転まで簡単に回ったのだって、同じチーム内のドライバーには負けられないから8000回転リミットという監督の指示なんて誰も守らない真剣勝負の連続。だからエンジンもどんどん良くなったし、テレメトリーなどない時代で比較はタイムだけだから、チーム同士の練習走行がレース本番よりも熾烈で翌年の年棒争奪の場だったかな」
「速さを見せつけないと、R380、R381、R382という当時の最高マシンには乗れないのは当然だもの」

と語ってもらった時は、優しく見えた目尻の柔和なシワ以上に、奥にキラリと光る怖過ぎる瞳を見て、これぞ“勝負師・国光”と決め付けていたもの。

豪雨のF1テスト
1977年日本F1テストは豪雨。ファンの期待に応えてくれました。そして、レースでは日本人最上位を記録する大健闘。

そして、1977年日本F1。国光選手はティレル007でターニー・レーシングから参戦。そのお披露目走行となったレース1ヵ月前の富士グラチャンレース時のデモンストレーションランでは、レースであってもあまりの豪雨でレース中断になるコース・コンディション。

ツーリングカーですら走行を躊躇する状況の中、国光選手は1600mのストレート部はハイドロプレーニング状態でリア・タイヤを空転させ、同様にノーグリップのフロント・タイヤをどうにかカウンターステアを駆使して走り続けたもの。

そして、ピットインしたところで一言「だって、ファンの皆さんはF1マシンが走るのを観に来てくれたのですよね」と…。

フェアレディ
4輪での初優勝は1966年3月、富士で行われたクラブマンレース。フェアレディ1600で出場、国光選手はブッチギリで優勝を飾った。

以後、国光選手はスプリント的速さをF2、F3000、富士GC各シリーズで発揮したのはもちろん、80年代に入り日本に導入されたグループC耐久選手権、全日本ツーリングカー戦ではペアを組んだ若手育成しつつ活躍。

GCレース
ポルシェと国さんのコンビネーションは、85~87年の3年間、耐久チャンピオンを獲得する。

ル・マン24時間レースにおいても7回挑戦、1995年にはホンダNSXで総合8位、クラス優勝という金字塔を築き上げたのだから、その守備範囲の広さには敬服するのみ。

マン島レース
マン島での世界選手権。見事なライディングを披露してくれました。(「走れ、クニミツ」より)

そして、後進にステアリングを譲ってからも「レースで勝つ」以上に「一人でも多くのファンにレースを魅せる」という姿勢は貫かれ、それまでの経験を生かし監督としてチームを指導。

今や押しも押されもしないレース界の第一人者であり、それゆえに「スポーツ功労者」として文部科学省に顕彰されるのは当然ではなかろうか。

S-GT2018チャンプ
TEAM KUNIMITSU・高橋国光監督は2018年、レイブリックNSXにてS-GT GT500のシリーズチャンプに輝きました。

【高橋国光プロフィール】
1940年1月29日東京都小金井市生まれ、2020年で80歳を迎えた
1958年、2輪レースデビュー、浅間火山レース2年連続で優勝する。
1959年よりホンダ・スピード・クラブ(HSC)に加入。WGP、マン島レースなどで好成績を収めていく。
1965年、日産自動車(株)より4輪レースに転向。
以降、フォーミュラ、ツーリングカー、耐久レース等、国内外のレースで活躍。
1995年、ル・マン24時間レースにNSXにて参戦、総合8位、GT2クラス優勝を果たす。
1999年、現役レーサーを引退。
2002年、日本自動車殿堂(AHFA)入りを果たす。
2020年現在もTEAM KUNIMITSU総監督としてS-GTにNSXで参戦、活躍中。

※文中の「高橋国光」さんと「高桐唯詩」さん、共に「高」は「はしごだか」です。

(文:熊谷 睦/画像:熊谷 睦・AUTO SPORT/まとめ:永光 やすの)

【関連リンク】
レースとクルマの電子書店・ASB電子雑誌書店「走れクニミツ 電子版 小説・高橋国光物語」
https://www.as-boohttps://www.as-books.jp/books/info.php?no=MSB19990214ks.jp/

走れ、クニミツ

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この記事の著者

永光やすの 近影

永光やすの

「ジェミニZZ/Rに乗る女」としてOPTION誌取材を受けたのをきっかけに、1987年より10年ほど編集部に在籍、Dai稲田の世話役となる。1992年式BNR32 GT-Rを購入後、「OPT女帝やすのGT-R日記」と題しステップアップ~ゴマメも含めレポート。
Rのローン終了後、フリーライターに転向。AMKREAD DRAGオフィシャルレポートや、頭文字D・湾岸MidNight・ナニワトモアレ等、講談社系車漫画のガイドブックを執筆。clicccarでは1981年から続くOPTION誌バックナンバーを紹介する「PlayBack the OPTION」、清水和夫・大井貴之・井出有治さんのアシスト等を担当。
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