【第8回・2020年7月8日公開】
戦後10年が経過する頃には、それまで自動車市場を牽引した3輪トラック、その後を引き継いだ4輪トラック全盛の時代が終焉を迎えようとしていました。
通産省は、当時徐々に増え始めた乗用車の開発を促進するため、まずは1955(昭和30)年に「国民車構想」を、1961(昭和36)年には「乗用車メーカー再編成(3グループ)構想」を発表しました。
いずれも構想だけでは実現しませんでしたが、これらが火付け役となり、時代は乗用車のモータリゼ―ション(自動車大衆化)に向けて少しずつ進展していったのです。
今回から始まる第3章では、モータリゼーションに向かう日本の自動車産業界と東洋工業について見ていきます。
第3章 自動車再編構想と4輪への本格参入
その1.国民車構想、メーカー再編成構想と東洋工業
●4輪トラックへシフト
1956(昭和31)年、経済白書に「もはや戦後ではない」という有名な文言が記されたように、日本は戦後10年間で目を見張る復興を果たしました。
復興の一端を担い、自動車産業を牽引していた3輪トラックは、昭和30年を迎える頃には4輪トラックにその座を譲りました。またその一方で、従来の3輪トラックより小回りの利く軽の3輪トラックという新しいジャンルの車が台頭しました。
このような市場の変化に対応するため、東洋工業は4輪トラック市場への本格的な進出を計画、1958(昭和33)年に初めて投入したのは本格4輪トラック「DMA型」で、「ロンパー」というペットネームが付けられた、1トン積みの3人乗りセミキャブオーバー型トラックでした。
続いて1961(昭和35)年には、東洋工業初となるボンネット型の小型4輪トラック「B1500」を発売します。
●人気の軽三輪トラック「K360」投入
東洋工業は、より膨らんでいく4輪トラック市場に注力する傍ら、小型3輪トラック市場を手放したつもりももともとなく、先述の「DMA型ロンパー」、その後に送り出した4輪トラック「D1100/D1500」以降も、引き続き小型の3輪トラックの販売も強化していました。
そこにダイハツが新しいジャンルの軽3輪トラック「ミゼット」を発売。1957(昭和32)年のことです。排気量249ccのエンジンを搭載した1人乗りの3輪軽トラックで、300kgの積載力が目を惹いて街中の運送や農家の手足として重宝され、爆発的なヒットになりました。
ミゼットの成功を受け、1959(昭和34)年に東洋工業も「K360」で追撃、ミゼットよりひと回り大きい2人乗りで、ミゼットのバー状ハンドルに対して円形ハンドルを採用しました。かわいいスタイルや取り扱い性の良さが評価され、その年は2万4,828台、翌年には7万4,476台を販売する大ヒット商品に成長、「K360」のネーミングから「ケーザブロー」の愛称で親しまれました。
ただし軽3輪のブームは一過性のもので、残念ながらその後販売は急降下してしまいます。
●国民車構想
乗用車が徐々に増え始めた1955(昭和30)年、通産省は乗用車の開発を促進するため「国民車構想」を発表しました。
国民車構想とは、下記の要件を満たす自動車の開発に成功すれば、国がその製造と販売を支援するという内容です。
★要約・国民車構想(正式名・軽乗用自動車育成政策概要)
・乗車定員は4名、もしくは2名と100kg以上の荷物が積めること
・排気量350~500cc。
・最高時速100km/h以上。
・平坦路で60km/h走行時の燃費が30km/L以上であること。
・大きな修理なしで10万km以上走れること。
・月産2000台のとき、1台あたりの販売価格が15万円以下であること(のちに「25万円以下」に修正された。)。
・この国民車を生産する企業に対しては、その製造設備・販売資金の一部を財政資金から支出するとともに、銀行からの融資も斡旋する。
など。
実際には、目標が高すぎて自動車工業会が達成不可能と表明するなどして実現できず、構想そのものは不発に終わりました。しかし、乗用車の国産化技術の進歩とモータリゼーションの火付け役としての役割は、非常に大きかったと評価されています。
(Mr.ソラン)
第9回につづく。
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第2章・戦中~戦後の復興
その1.戦時体制下の東洋工業(第5回・2020年7月5日公開)
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その3.大戦前後の他社メーカーの動向(第7回・2020年7月7日公開)