戦時体制下の東洋工業【マツダ100年史・第5回・第2章 その1】

【第5回・2020年7月5日公開】

第5回からは新章に突入、お話は戦争前後、1935(昭和10)年以降の時代に入ります。
日本は「国家総動員法」や「軍需会社法」によって戦争ムード一色となり、東洋工業も軍需会社となってしまいました。そのような状況下にあって、松田重次郎以下、東洋工業の陣容は新しい3輪トラックの販売を進めましたが、それも1941(昭和16)年には生産中止に追い込まれてしまいます。
そして1945(昭和20)年8月6日、広島に原爆が投下され、日本は8月15日に終戦を迎えました。しかし終戦から1か月も経たないうちに、社長の重次郎とその長男・恒次は事業再開に向けて動き始めたのです。

第2章・戦中~戦後の復興

その1. 戦時体制下の東洋工業

●戦時体制下の軍需産業

1937(昭和12)年に始まった日中戦争を機に国内は戦争ムード一色となり、あらゆる産業が総力戦体制に編成されました。
東洋工業もその例に漏れず、陸軍から歩兵銃と騎兵銃の生産をいい渡され、軍需品の生産を開始しました。
1938(昭和13)年には「国家総動員法」が公布され、戦争に向けてあらゆる人的、物的資源が国の管理下に置かれました。陸軍に加え、呉海軍工廠からも爆弾や水雷の製作の命令が下されたのです。
松田重次郎社長は、無理難題の高圧的な軍の指示に対しては強硬に抵抗し、いうべきことはいうという、軍にとっては厄介な人物であったようです。それゆえ、東洋工業は陸軍と海軍に強制的に共同管理下に置かれてしまい、東洋工業は4000人を超える一大軍事工場と化してしまいました。

●戦時体制下での3輪トラックの開発と断念

国家総動員法が公布された年の1938年の5月、東洋工業は新型3輪トラック「GA型」を発売します。
計器盤が緑一色に塗装されていたため、通称「グリーン・パネル」と呼ばれました。
排気量669cc、出力13.7ps、最大トルク3.5kgmのエンジンを搭載して動力性能と最大積載量を向上させました。また、戦時下の燃料不足に対応するためにトランスミッションを3速から4速にし、燃費を20%改善しました。
しかし軍需最優先のご時世ゆえに民生品の生産は歓迎されませんでした。ついにはガソリンが市場に出回らなくなり、1941(昭和16)年には3輪トラックの生産は中止に追い込まれてしまいました。

マツダGA型(通称・グリーンパネル 1938(昭和5)年5月)。
マツダGA型(通称・グリーンパネル 1938(昭和5)年5月)。

●世界大戦とともに軍需会社へ

1943(昭和18)年、軍事産業を加速するため「軍需会社法」が施行されました。
翌1944(昭和19)年1月には東洋工業は軍需会社に指定され、社長の重次郎が生産責任者、重次郎の長男で専務の恒次は生産担当者となり、東洋工業は完全に戦争のための会社になってしまいました。
この年の従業員は8556人、工作機械は2036台、電気炉4基、鋳造炉5基と、軍需工場としては国内トップクラスの規模と設備を有していました。

松田重次郎。
松田重次郎。
松田恒次。
重次郎の長男にして専務の松田恒次。

●原爆投下そして終戦

1945年8月6日午前8時15分、米国のB29によって原爆が投下され、一瞬のうちに広島市が焼け野原になりました。奇しくもこの日は松田重次郎の70歳の誕生日でした。
重次郎と恒次は無事でしたが、恒次の弟で販売を任されていた次男の宗弥が亡くなりました。多くの社員やその家族が犠牲になったことはいうまでもありません。
幸いにも本社と工場は爆心地から離れていたため、爆風の被害はあったものの、建物や設備に大きな被害はありませんでした。
1週間後の8月15日に終戦を迎えましたが、東洋工業は総動員して広島市民と公共機関の支援を行いました。東洋工業のグラウンドを救護所に開放したり、無事であった施設を広島県庁や裁判所、警察署などに提供するなどを行い、持ち合わせている設備を活用してもらいました。
その一方、終戦から1か月も経たないうちに恒次は3輪トラックに必要な資材や部品を調達するため、日本中の関連工場に出向いて協力を求めました。
重次郎と恒次は、すでに事業再開に向けて動き始めていたのです。

(Mr.ソラン)

第6回につづく。


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Mr. ソラン

某自動車メーカーで30年以上、自動車の研究開発に携わってきた経験を持ち、古い技術から最新の技術までをやさしく解説することをモットーに執筆中。もともとはエンジン屋で、失敗や挫折を繰り返しながら、さまざまなエンジンの開発にチャレンジしてきました。
EVや燃料電池の開発が加速する一方で、内燃機関の熱効率はどこまで上げられるのか、まだまだ頑張れるはず、と考えて日々精進しています。夢は、好きな車で、大好きなワンコと一緒に、日本中の世界遺産を見て回ることです。
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