チューニングメーカー「HKS」初代社長・長谷川浩之の熱き魂に迫った!【OPTION 1983年7月号より】

必ずやってみせる。和製コスワース目指して

D:社長の目標は、だいぶ近づいているんでしょう。日本で、コスワースやアバルトみたいな、世界に通用するプライベートのレーシングエンジン・ワークスが誕生したら嬉しい。

H:パーツはパーツとして、やはり夢はエンジンを作ることだからね。元々、レーシングエンジンを作りたくてHKSを設立したんだけど、いくら知識があっても失敗した。基礎が無かったんだね。だから、まず実力をつけることにして、ボルトオンターボに全力投入した。

D:オートレース用単気筒DOHCの成功が、最初のジャンピング・ボードというわけですか。

H:本格的なレーシングエンジンを作りたくても、使われる場が無くては開発する意味が無いからね。4輪用から始めても、どこも使ってくれないし、マトモなものができるわけない。オートレース用がターゲットとして、ウチの規模には最適だったんだよ。

D:ものになるまで、何年かかったんですか?

H:3年だね。最初はヘッドにスが入って穴が開いたり、クランクが折れたり・・・。勝てる性能を出すまでも大変だった。次は2気筒、試作段階に入っているよ。

D:その次が4気筒。楽しみですね。

H:この単気筒をやって、レーシングエンジンの難しさも再認識したけれど、可能性も見えてきた。5M-GやFJ20用のカムも作っているけれど、材質なんか実績ある単気筒のノウハウが生きている。

D:夢も近いんでしょう。その時はエンジン1基、下さいよ。ストリートで使うから!

【長谷川浩之】 昭和21年4月8日、静岡県生まれ。中学卒業後、国立沼津高等専門学校に入学。第1期生である。この頃からエンジニアを目指し、42年ヤマハ発動機入社。研究課でエンジン関係を担当し、2年間はトヨタへ出向。49年、独立して株式会社HKSを設立。

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電子・コンピューターチューニングが開かれつつある時代のお話は、その時代の最先端技術をチューニングメーカーとして研究・開発し、世のチューニングショップにその技術・ノウハウを伝え発展させる熱意が無ければなりません。長谷川さんの語るそんな熱意は、なんだかHONDAの本田宗一郎さんに似た匂いを感じるのは私だけでしょうか。

あらためまして、長谷川さんのご冥福をお祈り申し上げます。

【OPTION 1983年7月号より】

(Play Back The OPTION by 永光やすの)

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永光やすの 近影

永光やすの

「ジェミニZZ/Rに乗る女」としてOPTION誌取材を受けたのをきっかけに、1987年より10年ほど編集部に在籍、Dai稲田の世話役となる。1992年式BNR32 GT-Rを購入後、「OPT女帝やすのGT-R日記」と題しステップアップ~ゴマメも含めレポート。
Rのローン終了後、フリーライターに転向。AMKREAD DRAGオフィシャルレポートや、頭文字D・湾岸MidNight・ナニワトモアレ等、講談社系車漫画のガイドブックを執筆。clicccarでは1981年から続くOPTION誌バックナンバーを紹介する「PlayBack the OPTION」、清水和夫・大井貴之・井出有治さんのアシスト等を担当。
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