チューニング界を震撼させた男のプロフィール
川越街道から100mほど入った住宅街の一角に、RSヤマモトはあった。チョップといえるほどではない、ガレージである。眼をこらしてみると、店内には無造作に置かれたエンジンブロックやヘッドに混ざって、エアリサーチ製のタービンT04B、ソレックス3連キャブとHKS独特のデザインのエアチャンバーなどが見える。壁にはギッシリと工具類が吊るされてはいるが、見渡した限り、別に290km/hや400psの秘密はどこにも感じられない。
「もうすぐ独立して2年になります」と、山本は切り出した。風貌は痩せ過ぎ、五分刈り、ちょっと鋭い眼光が印象的である。メカニックというよりも、夜の街が似合いそうな感じ、といったら、叱られるか。昭和24年3月12日生まれの33歳(当時)、生まれは香川県。香川で過ごした工業高校時代は、かなりの悪ガキ、ツッパリだったらしい。悪さは一通り経験済みだという。タバコや酒はもちろん、その他の道でも相当、やりたいようにやっていたそうだ。
その他の道のひとつに、機械イジリが含まれていた。最初の犠牲は、兄の大事にしていたバイクCB72だった。16歳でバイクの免許を取ると、兄そっちのけで、このCBで田舎道を飛んで回った。見様見真似でエンジンをバラしてポートを削ったり、モトクロッサー風に改造したり。高校を出て、東京のある外資系製薬会社に技術員として就職し、初給料をつぎ込んでヤマハAT90を買う。当時はバイクレース全盛。雑誌を見ては、エンジンを改造した。「昔から資料魔というか、とにかく本を読んだり調べたりするのが好きだった。チューニングの記事はむさぶるように読んで、すぐ自分のバイクでやってみましたね」。給料は、すべてこれに消える。次の年には、中古のブルーバード410を友人から手に入れ、サニーB10を経て、マツダのプレストロータリーの新車にまでグレードアップする。このころから、仕事の暇なときに、近くのカーショップでアルバイトを始め、そのうちこっちが本業になってしまう。
本格的なチューニング作業に手を付け始めたのは、その店の四国支店を任されてからだ。「その頃、今のHKSとシグマオートモーティブが、極東から日本で初めてのボルトオンターボを出したんですよ。L20ワンキャブ仕様のね。で、当然面白いと思って、お客さんのクルマに何台も取り付けたんですが、ハッキリいってこれが難物でね。ターボとは名ばかりで不調続き。電気系がトラブったり、プラグがすぐカブったりね。どうしても調子良くしたいから、手当たり次第、本を調べたり電話で尋ねたりしたんです」。HKSの長谷川社長とも、その頃知り合う。山本の、あまりにも熱心な電話での質問攻めに感心した長谷川社長は、HKSが初めて出した3軒の特約店のひとつを山本の店に与えたという。
東京に呼び戻され、半年ほどチューニングから遠のくが、どうしてもその面白さが忘れられず、ショップを円満退社して、新しくできたチューニングショップ『三番館』に移った。昭和51年暮のことである。「三番館での4年間、一番みっちりと勉強しましたね。特にL型はあのタフさが好きでね、しつこいくらいチューンしましたよ。自分のジャパンにL28を積み、HKSのストリートターボを付けて、有明のゼロヨンに毎週通いました」。
記録はフロックではない。理詰めのチューニングの、当然の帰結なのだ
山本は性格的に、妥協が出来ない・・・といっても、これはいい意味でだ。いわゆる猪突猛進タイプじゃない。山本のチューニング方法は、大学の研究室でやるような、純粋な実験スタイルで行われる。「例えばね、CDIを付けるとする。普通なら、CDIとハイテンションコードと、コイルとプラグを一度に取り換えますよね。ボクはそれがイヤなんです。いっぺんに複数のチューンをすると、本当のCDIの効果が分からなくなってしまう。だから、初めて付けるときはCDIだけにする。もし性能アップしたなら、次へ進む。アップしなければ、付けるのをやめる。これはひとつの例ですけど、ボクはすべてのチューニングをこうして進めていくんです。頭悪いから、一度にたくさんのことが出来ないんだな」。山本は、チューニングを進めていってパワーに行き詰ったり、不調が直らなかったりした場合、今までひとつひとつやってきたデータを、最初から見直してみるという。だから、その時のために、チューニングを行っていく途中の変更点と効果について、ビッシリと記録を取ってある。
こうした、独特の実験調チューニングを三番館で磨いた山本は、55年12月に独立する。お客はすぐに三番館時代の人たちがやってきたので、困らなかった。が、最初の2~3ヵ月はさすがに心労で自身を失いそうになったらしい。だが、そんなときにも、ツッパリ根性と生まれつきの負けず嫌い、山本を頑張らせる。
開店1年め、つまり今年(1982年)の3月に、カーボーイ誌のショップ対抗最高速に初チャレンジ。山本自身のジャパン+3Lキャブターボ仕様で248.28km/hをマーク。このクルマは、ゼロヨンでも13秒27を記録する。この数字は、今(1983年1月)でもジャパンの最速データである。
「最高速に取りつかれましたね。ゼロヨンはボディ重量とかギヤ比とかタイヤとか、とにかくエンジンパワー以外の要素で決まる部分が多い。だけど、最高速はボディが同じなら、パワーの勝負です。とにかくパワーを出したヤツが勝つんだと思うと、何が何でもパワーを出そうと、ありとあらゆることをやってみましたよ」。(1982年)5月のカーポイント誌テストでは、旧Zの2.9Lキャブターボで、やはり248.28km/h。このときのL型ターボのチャンプは、OPT・Zの263.73km/hだから、まだ2線級の仕上がりである。
この旧Zに積まれた2線級のエンジンが、やがて400psのパワーを発揮するに至ったわけだが、そのときは各部の不調でまったくパワーが出ていなかった。HKSのスーパーターボキットをストレートに組んだだけでは、いかにキャブのジェットのセッティングやエンジンのセッティングを換えてもパワーは出なかったという。「いろいろ考えましたね。何しろ下の回転でキャブを決めると高回転で吹けず、反対にするとストリートじゃ使えなくなる。最大限譲って高回転優先にしても、パワーはそれほどでもない。とにかく、ひとつひとつ原因を潰そうと、このZのオーナーと相談したんですよ」。
結局、最初に行った重大な変更は、なんとクルマを新車に換えることだった。使っていた旧Zは電気系を改造した形跡があり、何度交換してもCDIがパンクするトラブルを抱えていたのだ。そこで、お客であるオーナーは、2Lの新車のZ・・・一番安い仕様なので、山本は素Zと呼ぶ・・・を購入、これに同じエンジンを搭載してみる。もちろん、条件を同じにするためにエンジンはそのままだ。まず、ボディ交換だけで見違えるようにパワーが出るようになった。やはり電気系が弱かったのだ。足まわりもしっかりしたし、空力も良好なので、安定性は格段に良くなった。次がパワーアップである。「ターボは空気の流れがパワーを決める。いかに各気筒に均一に空気を導くか。いかに適切な燃料の空燃費を設定するか。とにかく毎日、朝から晩までそんなことを考えてました。で、ひとつ思いつくと、とにかくやってみる。夜中でも起きてきて作業して、テスト走行に出かけました」。その情熱が、いくらページがあっても書き切れないほどのノウハウを、いつしか蓄積していたのだ。その細かいセッティングは、さすがと思わせるものが何10ヵ所もある。ひとつひとつのセッティング、改造に、ちゃんとした目的と理由があり、そしてテストの結果、立証されたという証明があるのだ。「考えてみれば当たり前のことですよ、みんな。例えば、各気筒ごとに入っていく空気の量が違っていれば、当然ガスが濃いシリンダーと薄いシリンダーができてしまう。インジェクションなら、各気筒ごとの噴射量がまったく同じだから、さらにそれが助長される。その点、キャブはいいですよね。空気量に見合っただけ燃料が出るんですから。だから、ボクはキャブを使っているんですけども、しかしそれだけじゃダメ。いかに各気筒の空気量を均一にしてやるか、メイク&トライで何10回となく改造を重ねましたよ」。