自伝的・爺ぃの独り言・02 星島 浩 <運輸省(当時)自動車局整備課で>

[MONDAY_TALK] 上京して通った某美術研究所は言わば芸大予備校然とした各種学校の類で、理事長に著名な美術評論家が就き、当代一流の画家、デザイナー数名を講師に迎えて実技指導に当たっていた。が、実際は石膏像デッサンなど自習時間が大半で出欠を厳しく問うこともなかった。
 一風変わっていたのは産学協同みたいな側面だ。事務を担当していた理事長の奥方が新聞・雑誌の広告主や代理店に掛け合い、デザインコンペの形で生徒に実習させた。採用例は多くないものの、採用されると学校の収入になる上、生徒にも応分のギャラが支払われる。
 学生の多くが下宿住まいでアルバイトしながらの通学だ。中には血を売る苦学生もいたから、作品が採用されると躍り上がったもの。

 私も数点採用された。黒猫の大きな瞳に指針と目盛りを描き込んだ露出計の雑誌広告がクライアントに気に入られ、学校を辞めた後もパッケージデザインなど頼まれた。両国の花火を模した紡織会社のネオンサインが入賞したお陰で、和服のたとう(包み紙)をデザインしたほか、月末には決まって夜半まで劇場数カ所を掛け持ちしてショーケースの模様替えに付き合う—-忙しいけど、楽しかった。
 ネオン制作社は工場が静岡県。事務所が神田神保町近くにあり、毎夜、屋上で発色やパフォーマンスを確認するなど良い勉強になったし、小川町裏通りの看板屋ではショーケースの小道具制作やペンキ塗りなど、積極的に手伝ったもの。
 私には先輩画家に紹介されたアルバイトもあった。日本橋に近い地下のスタジオでヌード・クロッキーをしていたとき、なにかの拍子で自動車が話題になり「興味があるなら手伝わないか」と誘われたのが運輸省(当時)自動車局整備課の孫請けアルバイトである。下請けは京橋に本拠を構える鉄道写真家だったと記憶する。
 自動車の保安基準や整備基準に新項目が加わったり、内容が改正される時期で、担当技官が条文に付ける説明図を発注するのだが、条文が専門用語の羅列ゆえ、一般の絵描きさんにはチンプンカンプンだ。
 例えばバルブタペット調整であり、隙間調節のシム交換であり、ブレーキシュー整備などなど。技官に説明されながらも、下図が出来あがるのに時間がかかり過ぎると、官報掲載の刻限に間に合わない。
 が、初めて技官の説明を聞いた時点で、私の立場が一変する。

 パーツ名や工具名を耳にした途端、6〜7年の空白期間がウソみたいに、神戸駅前のタクシー会社で眺めていた整備作業が鮮明に蘇ってきた。書物で知ったのではない。運転手と助手がやりとりするパーツ&工具名や作業を、幼児時代から数年がかりで憶えた内容だもの。
 説明されなくても条文を読めば直ちに鉛筆描きできる。むろん技官の指示で修正することはままあるが、私は鉛筆を走らせるだけ。墨入れは本職の絵描きさん数名が分担。グループ最年少の小僧が、俄(にわか)にエースピッチャーに昇格。思いのほか作業がはかどって重宝がられた。
 1枚幾らだったか憶えていないが、半日で10枚として、半分が私に支払われるのだから嬉しい。お陰で少しはマシな下宿に移り、中古の原動機付き自転車を買って、電車通学&通勤から解放される。
 担当のエリート技官に犬丸令門さん(後のJAF副会長)と細谷開造さん(後の軽自動車検査協会専務理事)がいらっしゃったのも幸運だ。
 両氏が2年ほど前から解説書の出版で関係があった現三栄書房の初代社長=鈴木賢七郎氏宅に連れて行ってくださり「役に立ちそうだ」と紹介され「ならば明日からでも」と、モーターファン誌でも仕事ができるようになる。月2500円ほどの安定収入である。JAFに移られた犬丸さんにはモータースポーツ関係でもお世話になった。いずれにせよ、お二人は足を向けて寝られない恩人だ。
 鈴木社長のご自宅は四谷だが、編集部は市場通りに面した茅場町にあり、私に与えられたのは図面トレースや説明図の類が主だが、デザインを学んでいた関係で、見出しや広告イラストに至る広範囲に及び、その後、長らく使われる「モーターファン」の題字も私が更新した。
 社長が出勤途中に寄る丸善で、欧米専門誌や辞典を購入。編集部の参考資料に、と示された構造透視図が、やがて私を虜にする。★