日本初のプロトレーシングカー「R380」を開発したプリンス自動車はどうやってポルシェ904に勝った?【歴史に残る車と技術027】

■航空機技術のDNAを受け継いだR380が第3回日本GP制覇

1966年の第3回日本GPで優勝した「R380」(砂子義一選手)
1966年の第3回日本GPで優勝した「R380」(砂子義一選手)

プリンス自動車は、1964年4月28日(火)~ 5月3日(日)に鈴鹿サーキットで行われた第2回日本グランプリで、スカイラインGTが一時的にリードするも、最終的にはポルシェ904に完敗したことから、打倒ポルシェのために超ハイスペックのプロトレーシングカー「R380」を開発しました。

R380は、1966年の第3回日本GPで、ポルシェを抑えて見事1-2フィニッシュを飾って、雪辱を果たしたのです。


●立川飛行機と中島飛行機を源流とするプリンス自動車

プリンス自動車の源流を遡ると、立川飛行機と中島飛行機という2つの航空機メーカーに辿り着きます。

終戦後に軍需産業とみなされた立川飛行機と中島飛行機が解体された後、その航空機技術者の一部が自動車の生産を目指して「東京電気自動車」を設立、その後「たま自動車」を名乗り、1952年に「プリンス自動車」と改名しました。

その後、紆余曲折を経て1954年に「富士精密工業」となり、その間に「プリンス・スカイライン」と「プリンス・グロリア」を開発しますが、1961年に再び「プリンス自動車」を名乗り、最終的にはプリンス自動車は1966年に日産自動車に吸収合併されました。

ちなみに、プリンスという社名の由来は、当時の皇太子(現在の上皇陛下)の立太子礼を記念して新型車に付けられた車名に由来します。

●第1回と第2回日本GPでのスカイライン敗北の屈辱

1963年に鈴鹿サーキットで開催された第1回日本GPに、初代スカイラインのスポーツモデル「スカイラインスポーツ」と「スカイラインスーパー」で参戦したプリンス自動車でしたが、見せ場なく惨敗します。レース前の “メーカーがチーム編成をしない、メーカーが改造に関与しない”という紳士協定を律儀に守り、完全な市販車でレースに臨んだことが敗因とされます。

1964年の第2回日本GPで「ポルシェ904」を追走する「スカイラインGT」
1964年の第2回日本GPで「ポルシェ904」を追走する「スカイラインGT」

そこで、プリンス自動車は翌1964年の第2回日本GPで雪辱を果たすため、2代目スカイラインにグロリアの2.0L直6 SOHCエンジンを搭載した「スカイラインGT」で参戦。

生沢徹選手のドライブするスカGは、7周目のヘアピンカーブで「ポルシェ904(カレラGTS)」を抜き去り、先頭に立つという快挙を達成。これによって、今も語り継がれる“スカG伝説”が誕生したのですが、最終的にはレースはポルシェ904の圧勝で終わりました。

ポルシェ904のプロトタイプスポーツカーの高性能を目の当たりにしたプリンス自動車は、ポルシェ904に勝てる、本格的なレーシングマシンの開発を決断したのです。

●ブラバムBT8を参考にして出来上がったR380

本格的なプロトスポーツカーの開発チームのリーダーは、スカイライン生みの親でもある桜井眞一郎氏でした。

しかし、レーシンカー製作の経験がなかったため、まずは参考車として当時のレーシングカーの名門ブラバムの「BT8」を購入し、分解して徹底的に分析することから始めました。

プリンスR380の主要諸元
プリンスR380の主要諸元

R380のボディは、風洞試験を重ねてスタイリングを決定し、アルミパネルの溶接は立川飛行機出身の熟練者が丹念に作り上げました。車体を鋼管スペースフレーム+アルミ合金製ボディで製作、サスペンションを前軸:ダブルウィッシュボーン/後軸:ダブルトレーリングで構成し、ブレーキにはガーリングタイプの4輪ディスクが組み込まれました。

ミッドシップされたエンジンは、ウェーバー製キャブレターを3連装し、フルトラ式点火装置を装備した1996cc直6 DOHC 4バルブのGR8エンジン。アルミ合金製シリンダーヘッドに鋳鉄製シリンダーブロックで構成され、ギアトレイン式のカムシャフト駆動、ドライサンプ式オイル潤滑を採用し、ヒューランド製5速MTを組み合わせて最高出力は200PS超を発生しました。ちなみに、GR8エンジンから派生した市販ユニットが、“ハコスカ”「2000GT-R」に搭載されたS20エンジンです。

元航空機技術の流れを受け継いだ技術者たちの結晶となったR380が出来上がったのは、1965年6月末。そこから試験走行を繰り返し、マシンの完成度が高められました。

●第3回日本GPで総合優勝、第4回ではポルシェが奪回

1966年の第3回日本GPは、完成したばかりの富士スピードウェイで開催。プリンス自動車は、満を持して4台のR380で参戦しました。

第3回日本GPでトップを独走する「R380」
第3回日本GPでトップを独走する「R380」

瀧進太郎選手がドライブするライバルのポルシェ906は、一時リードを奪ったものの、給油に時間を要したために逆転を許し、その後リタイヤ。最終的に、砂子義一選手が駆けるR380が前回の雪辱を果たして優勝、2位には大石秀夫選手のR380が入り、プリンス自動車は日産との合併を控えた最後のレースで見事1-2フィニッシュを飾ったのです。

しかし、翌1967年の第4回日本GPでは、生沢徹選手が駆ける「ポルシェ906(カレラ6)」が高橋国光選手のR380-IIを抑えて総合優勝を飾りました。

R380の登場は、日本における自動車黎明期に、海外ブランドのプライベートエントリーのレーシングカーに、日本メーカーが総力を上げて立ち向かって技術を磨くという、そんなきっかけを作ったのです。

●R380が日本GPを制覇した1966年は、どんな年

1966年4月にデビューした「ダットサンサニー」
1966年4月にデビューした「ダットサンサニー」

1966年は、サニーとカローラが国民的な人気を得て大衆車市場を切り開いたことから、“マイカー元年”と呼ばれています。同年には、日産自動車「ダットサン・サニー」、トヨタ「カローラ」の他に、スバル「スバル1000」も登場しました。

1966年12月にデビューした初代「カローラ」
1966年12月にデビューした初代「カローラ」

サニーは、軽量ボディのファストバック風の斬新なスタイリングで、マイカー時代の先陣を切って人気を獲得したファミリカー。

カローラはサニーの約半年後、11月にデビューし、サニーとともに日本のモータリゼーションをけん引した現在も人気のロングセラーモデル。

スバル1000は、スバル初の小型車で、FFレイアウトや水平対向エンジンを搭載した先進技術が特徴です。

1966年にデビューした「スバル1000」、スバル初の小型車
1966年にデビューした「スバル1000」、スバル初の小型車

その他、この年には日本の人口が1億人を突破し、ビートルズが来日してミニスカートとロングブーツが流行りました。TV番組「笑点」と「ウルトラマンシリーズ」の放映が開始され、江崎グリコの「ポッキー」、明星食品「チャルメラ」とサンヨー食品「サッポロ一番」の発売が始まりました。

また、ガソリン51円/L、ビール大瓶120円、コーヒー1杯76.5円、ラーメン70円、カレー126円、アンパン16円の時代でした。

スカイラインを誕生させたプリンス自動車が、技術の粋を結集して作り上げた日本初のプロトレーシングカーR380。日本のモータースポーツの扉を開けた、日本の歴史に残る車であることに、間違いありません。

Mr.ソラン

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Mr. ソラン

某自動車メーカーで30年以上、自動車の研究開発に携わってきた経験を持ち、古い技術から最新の技術までをやさしく解説することをモットーに執筆中。もともとはエンジン屋で、失敗や挫折を繰り返しながら、さまざまなエンジンの開発にチャレンジしてきました。
EVや燃料電池の開発が加速する一方で、内燃機関の熱効率はどこまで上げられるのか、まだまだ頑張れるはず、と考えて日々精進しています。夢は、好きな車で、大好きなワンコと一緒に、日本中の世界遺産を見て回ることです。
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