伝説のマシン「光永パンテーラ」誕生の秘密をABR細木さんに聞いてみた! 日本最速307.69km/h記録誕生の苦労とは?・後編【OPTION 1984年6月号より】

新・必殺改造人 光永パンテーラを作った男、ABR細木エンジニアリング・細木勝さん、前回に続き後編です。

家業の整備工場を手伝いながらチューニングをしていた細木勝さんが、G.A光永氏と出会ったことから始まった本格的なチューニングと、記録狙いの究極パンテーラ製作。しかし、その過程は苦労ではなく、戦い…。では後編をドーゾ!

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新・必殺改造人
日本初の300km/hオーバー、307.69km/hを記録した伝説の最高速マシン
「光永パンテーラ」を作った男・ABR細木エンジニアリング 細木 勝

OPT:エンジンについてのノウハウを知った人がちゃんと組んだかどうか、分からなかったわけですね。

細木:そう。その後、すべてが組み上がってエンジンをかけたんだ。そしたらものの数分で止まってしまい、おかしいと思ってバラしてみたんだよね。そしたら、エンジンとミッションとが繋がっている部分のメインベアリング・キャップが割れているんだ。原因はミッションを組む時、サイズの違いをよく見ずに、無理矢理に締め上げたとしか考えられない。やられた!っていう感じだったね。

OPT:口では簡単に「組む」とか「バラす」とか言えるけど、実際には物凄く手間のかかるものなんでしょ?

細木:そりゃ当たり前だよ。エンジンなんて1日やそこらでバラしたり組んだりできるもんじゃない。それでラインボーリングをやり直して、クランクには肉盛りをして研磨、メタルをアンダーサイズにしてやっと完成したんだ。

OPT:本格的にシェイクダウンしたのはどこだったんですか?

細木:500kmくらいブレークインして東名で本格的に踏んでみた。最初はあまり速くなくてね。そのうちにプッシュロッド下のローラーリフターがフッ飛んでプッシュロッドは折れ、カムはメチャクチャ、それらの破片がエンジンの中に散らばっちゃったんだ。

OPT:じゃあまたやり直しだったんですか。こりゃ本当に苦労というよりは戦いですね。

細木:それからオイルクーラーを含めてエンジンの中をきれいに洗い、リフターが躍らないようにレブキットを入れたんだ。このレブキットというのはおそらく、日本で装着しているのはこの1台だけだったと思うよ。それで、キャブは650という小さいタイプを2基付けていたものを850の大型1基に換えて、なんとかイケるようになった。

この記事の著者

永光やすの 近影

永光やすの

「ジェミニZZ/Rに乗る女」としてOPTION誌取材を受けたのをきっかけに、1987年より10年ほど編集部に在籍、Dai稲田の世話役となる。1992年式BNR32 GT-Rを購入後、「OPT女帝やすのGT-R日記」と題しステップアップ~ゴマメも含めレポート。
Rのローン終了後、フリーライターに転向。AMKREAD DRAGオフィシャルレポートや、頭文字D・湾岸MidNight・ナニワトモアレ等、講談社系車漫画のガイドブックを執筆。clicccarでは1981年から続くOPTION誌バックナンバーを紹介する「PlayBack the OPTION」、清水和夫・大井貴之・井出有治さんのアシスト等を担当。
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