国内初300km/hオーバーマシン「光永パンテーラ」を作った男、ABR細木さんに迫ってみた! あの伝説を聞かせてください・前編【OPTION 1984年6月号より】

1981年11月17日、茨城県・日本自動車研究所・高速周回路、通称:谷田部にて、髙橋国光氏ドライブにより日本初の300km/hオーバー「307.69km/h」を記録したスーパーチューンド、ゲーリー・アラン・光永氏オーナーの深紅のチューンド・パンテーラ。

この光永パンテーラに関しては以前、Play Back The OPTIONでもご紹介しましたし、あまりにも有名なレジェンド・マシンなので、OPT読者でなくてもご存知の方が多いかと思います。

で、この伝説マシン・光永パンテーラの話をする中で、必ず名前の出てくる日本のチューナーさんがいらっしゃることはご存知ですか? その方が、今回ご紹介する「ABR細木エンジニアリング」の細木勝さんです。

この「新・必殺改造人」というページは不定期連載で、話題のチューナーさんやチューニングパーツメーカーの方に、人物像を中心に、ちょっとマニアックなインタビューをしてみた!というページです。細木さんの掲載号は、307.69km/hを記録した約2年半後。ショップ「ABR細木エンジニアリング」を本格的に構えた直後の話です。では、伝説の光永パンテーラの画像とともにドーゾ!

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新・必殺改造人
パワーソースのレベルアップはボクに任せて欲しい! by 細木 勝

幻のV8Z、そしていまだにボクたちの脳裏に焼き付いて離れない光永パンテーラ。チューニングマシン史上に残る最強マシン、しかし、そのマシンの生みの親を知る者は少ない。その隠れた名チューナーとして日夜、マシンと戦ってきた男がいよいよ表に出た。趣味だったチューニングをプロフェッショナルの業にかえて。

【ボクとゲーリー】

OPT:今日は、影の名チューナーが表に出るということでお話を伺います。ひとつよろしくお願いいたします。

細木:そういう風に言われると話しにくいけど…。

OPT:OPTのDaiとは親しい友だちということですが、いつ頃からですか?

細木:Daiちゃんとは雨さんの紹介で知り合ったんだ。仲間のひとりが雨さんのところでチューンしていて、一緒にRE雨宮にいったときに会った。たしかOPTが創刊されたころ(※1981年)だったと思うよ。

OPT:その頃はもちろん、細木さんもチューニングをしていたんでしょ?

細木:今のようなカタチではないけどね。家が整備工場をやっていたからその仕事を手伝って、合間に自分のクルマをいじりだしたのが、ボクのチューナーとしてのスタートだったんだ。でも、それは今(※1984年)から10年近くも前の話でね。Daiちゃんとは3年くらい前に知り合ったから、そのときはチューニングについてはある程度分かり始めていた。

OPT:工具や場所もあり、割と恵まれた環境にあったわけですね。

細木:まぁね。でも、昼間めいっぱい仕事をして、夜になってまたいじるとなると、結構辛いもんでね。好きだったから出来たけど、やっぱり一日中いじっていたかったよ。

OPT:細木さんが最初にチューニングをやるきっかけとなったのは、どんなクルマだったんですか?

細木:う〜ん、やっぱりゲーリー・A・光永氏と知り合ってからだね。もちろん、その前からチューニングに興味はあったけど、それは自分なりに遊びでやっていた程度。本格的に時間とお金をかけて没頭し始めたのは、ゲーリーに会ってからなんだ。

OPT:ゲーリー氏は、307.69km/hの記録を残した、あのパンテーラのオーナーですね。

細木:そう。彼と知り合ってからボクの人生は変わった。それまでやってきたことがただの遊びだったと思えるくらい、チューニングということに真正面からぶつかっていったんだ。

この記事の著者

永光やすの 近影

永光やすの

「ジェミニZZ/Rに乗る女」としてOPTION誌取材を受けたのをきっかけに、1987年より10年ほど編集部に在籍、Dai稲田の世話役となる。1992年式BNR32 GT-Rを購入後、「OPT女帝やすのGT-R日記」と題しステップアップ~ゴマメも含めレポート。
Rのローン終了後、フリーライターに転向。AMKREAD DRAGオフィシャルレポートや、頭文字D・湾岸MidNight・ナニワトモアレ等、講談社系車漫画のガイドブックを執筆。clicccarでは1981年から続くOPTION誌バックナンバーを紹介する「PlayBack the OPTION」、清水和夫・大井貴之・井出有治さんのアシスト等を担当。
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