■都民の暮らしを支えた踏切
東京・銀座の一角、海岸通り汐先橋交差点から北に50mほどの所にある、銀座郵便局入口の脇に踏切の警報器が立っています。
警報器の傍らには「銀座に残される唯一の鉄道踏切信号機」と書かれた立て札があります。とはいえ、周囲に線路はなく、海岸通りから南へ向かう一方通行の道があるだけです。
警報器の土台を見てみると説明板が2枚あります。歩道に向いた1枚には「浜離宮前踏切 説明」と書いてあります。
これによると、1931年から1987年1月31日まで国鉄汐留駅と東京都中央卸売市場築地市場(1984年までは東京市場駅)を結んでいた引き込み線の踏切で使用されていたとのこと。
海岸通りに向いたもう1枚には「保存理由」と書かれています。要約すると、引き込み線の廃止後、都民の暮らしを支えてきたこの警報器を永久保存することにした、とのことです。
つまり、この警報器は実際に海岸通りを横断する貨物引き込み線用に使用されていたもので、警報器の脇にある一方通行の道路は、引き込み線を転用したいわゆる廃線跡なのです。
引き込み線は汐留駅から築地市場に至る約1.1kmの路線でした。
地理院地図の航空写真を見てみましょう。写真左側にある広大なヤードが汐留駅、右側には築地市場があります。このふたつを結ぶように緩く右カーブしているのが引き込み線で、東京高速道路と並行する海岸通りに踏切があることが分かります。
築地市場では、南から東にかけての外周部に貨物ホームが設置されていて、一度に40両の貨車の荷役ができたそうです。
この引き込み線には、各地から鮮魚を積んだ貨物列車が通過して築地市場に向かっていました。ピーク時には1日150両の貨車が往来したそうです。
1966年からは特急用冷蔵貨車レサ10000形・レムフ10000形で組成した特急貨物列車「とびうお」を山口県の幡生操車場から汐留駅まで運行。中国・九州地方の鮮魚を輸送しました。東北地方からも冷蔵貨車を使用した「東鱗号」を運行。これらの列車の貨車は、直接築地市場に乗り入れて鮮魚を降ろしていました。
余談ですが、鮮魚列車で活躍したレムフ10000形と、「とびうお」をけん引したEF66形電気機関車が埼玉県さいたま市の鉄道博物館で保存されています。レムフ10000形は冷蔵室の中を見ることができます。
●廃線跡を辿ってみました
引き込み線は、汐留駅から築地市場に至る約1.1kmの路線でした。しかし汐留駅は再開発され、現在は巨大複合都市「汐留シオサイト」となりました。
なお、汐留駅の前身は、今から150年前の1872年に開業した日本最初の鉄道の起点である新橋駅(初代)で、1914年に東京駅が開業した際に、現在地にある烏森駅を新橋駅(二代目)に改称。初代新橋駅は貨物専用の汐留駅となりました。
現在初代新橋駅があった場所に駅舎とホームを復元した「旧新橋停車場跡」があります。当時の遺構のほとんどは埋め戻していますが、一部は見ることができるようになっています。
廃線跡のスタート地点となる浜離宮踏切跡は、旧新橋停車場跡から150mほど離れた場所にあります。踏切は海岸通りを横断し、東京高速道路の下を通過していました。その向こう側には汐留駅跡地を再開発した汐留駅「シオサイト」が広がっていて、カレッタ汐留のビルが見えます。
廃線跡を道路に転用したのは、ここから新大橋通りとの交差部分までです。警報器の場所から見ると緩く右にカーブしていて、かつて鉄道の線路だったことを感じさせてくれます。なお、この道はかつては両方向に通行することができたようですが、現在は新大橋通りへ向かう一方通行に改められて、道路の半分を使用停止にしています。
途中に首都高速を跨ぐ新尾張橋があります。この橋は鉄道用の鉄橋を流用したものではなくて、道路用に新たに架けられたものです。
尾張の由来はこの場所に尾張徳川家の築地下屋敷があったからだそうです。江戸時代にはこの場所の下流100mに尾張橋が架けられていました。尾張橋は昭和40年代始めに撤去されて、新大橋通りの道路敷となっていましたが、平成の時代に新尾張橋として名称を復活させたのだそうです。
新尾張橋を渡ると浜離宮朝日ホールの脇を通ります。この部分の歩道と車道が建物に食い込んでいて、ちょっと違和感があります。本来の線路跡は現在使用を停止している部分なのではないかと思います。
新大橋通りに出ると廃線跡も終了です。新大橋通りの向こう側にはかつて築地市場があり、荷役ホームも残っていました。現在は様変わりしています。
かつては、東京都心にも多くの貨物引き込み線がありました。その中でも築地市場へ引き込み線は非常に重要な役割を持っていました。しかし、鮮魚輸送貨物列車はトラックに取って代わられ姿を消しました。
現在は市場も豊洲に移転していて、今後大きく変貌を遂げることでしょう。
(ぬまっち)