■ついに日本上陸を果たし、スズキ本社に持ち込まれたED2(GSX1100Sカタナ)
GSX750S/GSX1100Sカタナに18年間乗り続け、オーナーズクラブの副会長も努めた人物が、自らの経験と多くの人へのインタビューから「カタナ」というバイクについて考察する。
1980年の夏頃、ついにターゲット・デザインが作り上げたED-2(GSX1100Sカタナ)のモックアップがスズキ本社に持ち込まれた。
その時、現場に居合わせたひとりがスズキのロードモデルの開発に長年携わってきたエンジニアの横内悦夫さんである。2ストロークエンジンがメインだったスズキで新たに4ストロークエンジンを開発。1978年にはGS1000をPOPヨシムラに託して鈴鹿8時間耐久ロードレースに参戦し「不沈艦隊」と呼ばれたホンダ・RCB軍団に後塵を浴びせ優勝したときの立役者でもある。
その後世界最速のバイク・GSX1100Eを開発するのだが、過去にも記した通り「スズキのバイクは性能は良いが、デザインが地味」というユーザーの声に悩んでいた時期でもあった。「技術的なことは自分たちで何とかできたがデザインは専門外だった」という横内さん。歯がゆかったことだろう。
ユーザーの声は厳しかった。しかし自分たちの仲間である社内デザイナーたちが日々努力している姿を目にしていたから軽はずみな発言はできなかった。横内さんも彼らが生み出したバイクを「否定できなかった」と回想している。また彼らにもユーザーの声が届いていたはずだ。
それまでのスズキのバイクが持っていた「質実剛健なイメージ」には根強いファンがいたことは間違いない。しかし時代の流れは早く、急速に変わっていったユーザーの趣味趣向に対応しきれていなかったとも言える。クリエイターとして大いに悩んだであろうことは想像に難くない。
話がちょっと逸れてしまったので本筋に戻る。
「ヨーロッパからクレイモデルがくる」という話は横内さんには寝耳に水だったようだ。当時、ヨーロッパで営業をしていた谷さんが外部のデザイン事務所と組んでデザイン・プロジェクトを進めていることを知っている社内スタッフはあまり多くなかったのだ。ヨーロッパから届けられた大きな荷物は、スズキ本社のモデル室内スタジオに運び込まれた。それを開梱したときの様子を横内さんは手記で以下のように記している。
『梱包を開けてびっくり、中から出てきた奇抜なデザインに私たちはド肝を抜かれた。ショッキングなスタイルを目の前にして、ただ「ウオーッ」と言ったまま、しばしの間見入ってしまった』(横内)
衝撃だった。今まで見たこともないスタイリングを持つバイクの姿は、立ち会ったすべての人から言葉を奪ったのだ。それほどまでにターゲット・デザインが創り出したED-2はインパクトがあったのである。
『クレイモデルをよーく見るとその前衛的なデザインに、私はだんだんと惹かれていくのを覚えた。芸術的レベルが高いせいだろうか、私の気持ちは驚きから「これは素晴らしい」という感動へと変わっていった』(横内)
間もなく社内でED-2のモデル検討会が始まった。参加者は当時の社長を始め、海外営業、国内営業、生産技術と横内さん率いる設計技術部門の関係者など。大勢のスタッフが集まったそうだが、その席にはハンス・ムートもいたという。クレイモデルを前にスズキのスタッフは全員、ため息のようなものを吐きながら黙り込んでいた。すると突然、その静寂を破るかのように社長が「こんな仮面ライダーのようなもの、やるのか」と発言した。
その言葉を聞いた横内さんは『このバイクは新しいスズキを確立するために量産しなければいけない』との想いを強くし、すぐに行動を始めた。
(横田和彦/画像提供:Target Design)