フォルクスワーゲン ビートルが生産終了。今だから振り返りたい「カブトムシ」の歴史

偉大な歴史にピリオドです。独フォルクスワーゲンが9月13日、ビートルの生産を終了すると発表しました。

すでに日本の公式サイトでも「See you The Beetle」というお別れキャンペーンが始まっていますが、ここでは、80年にも及ぶ歴史の主役となった初代ビートルの歴史を振り返ってみましょう。

ビートルが生まれる発端となったのは、1933年にドイツのヒトラー政権が提唱した国民車構想です。ヒトラーはかねてから自国のモータリゼーションの遅れに危機感を抱いており、道路(アウトバーン)とクルマを作って、その挽回を図ろうとしたのですね。

ヒトラーが思い描いた国民車とは以下のようなものでした。
・頑丈で維持費が安い
・大人2人と子供3人が乗れる
・時速100kmで巡行できる
・7Lのガソリンで100km走れる(1リッターあたり14.3km)
・空冷エンジンを搭載する
・ボディは流線形とする
・価格は1000マルク以下

当時、もっとも安いオペル車でさえ1450マルクでしたから、この計画はほとんど笑い話のレベルでしたが、その笑い話を実現するため、一人の技術者が選ばれます。フェルディナント・ポルシェ博士。そう、自動車の黎明期に数々の発明を行い、のちに世界的なスポーツカーメーカーとなるポルシェ設計事務所を作ったお方です。

ポルシェ博士はもともと大衆向けの小型車を作ることが夢で、1930年代初めから何台もの試作車を作ってきました。プロジェクトにはこうした試作車のノウハウが投入されたのですが、それはセミモノコックという当時最先端の構造を持ち、水平対向という特殊なエンジンをボディ後端に積むという前代未聞のクルマでした。

この記事の著者

角田伸幸 近影

角田伸幸

1963年、群馬県のプロレタリアートの家庭に生まれる(笑)。富士重工の新米工員だった父親がスバル360の開発に立ち会っためぐり合わせか、その息子も昭和期によくいた「走っている車の名前が全部言える子供」として育つ。
上京して社会人になるも車以上に情熱を注げる対象が見つけられず、自動車メディアを転々。「ベストカー」「XaCAR」で副編集長を務めたのち、ポリフォニー・デジタルにてPlayStation用ソフトウェア「グランツーリスモ」シリーズのテキストライティングに携わる。すでに老境に至るも新しモノ好きで、CASEやパワートレインの行方に興味津々。日本ディープラーニング協会ジェネラリスト検定取得。大好物は豚ホルモン(ガツとカシラ)。
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