国内初300km/hオーバーマシン「光永パンテーラ」を作った男、ABR細木さんに迫ってみた! あの伝説を聞かせてください・前編【OPTION 1984年6月号より】

OPT:その頃の話ってとても興味がありますね。そのきっかけがあったからこそ、最高速パンテーラが生まれた・・・ということですか。

細木:あの頃は自分のクルマ、コロナ2000GTをチューンして乗っていたんだけど、18R-Gを2.2Lにボアアップして、カム・キャブ・足まわりをいじって夜ごと走り回っていた。そのとき、ゲーリーに首都高に速い連中が走りに来てるから行こうと誘われ、行ってみるとその連中の中に同級生がいてね。それから彼らと一緒に走るようになったんだ。

OPT:18R-G改ですか。そのころ最もポピュラーなチューンですね。さぞかし速かったんでしょうね。

細木:あれはあまり速くなかった。もちろん、一緒に走り回った連中よりは速かったけど、自分としてはいまいち納得できなかったんだ。その次にセリカの1600GT。これもフルチューンして、まぁコロナよりは速かったね。とはいっても、やっぱりいじる時間が制限されていたからね。それに夜、走りに行く時間も必要だったし。

【パンテーラとの戦い】

OPT:でも、それからあのV8Z(※S30Z+シボレーV8スモールブロックのバケモノマシン)やパンテーラを作るにいたっては、相当な苦労があったと聞いていますけど。

細木:そう、あれはね。ベースになったクルマの程度がそうとう悪くてね。ゲーリーの知り合いから買ったんだけど、ほとんどレストアという感じで手を加え始めたんだ。ボディは錆びてるところも多かったし、苦労した。でも日本一速いマシンを作るんだ!という意気込みがあったから、毎日深夜までやった。

この記事の著者

永光やすの 近影

永光やすの

「ジェミニZZ/Rに乗る女」としてOPTION誌取材を受けたのをきっかけに、1987年より10年ほど編集部に在籍、Dai稲田の世話役となる。1992年式BNR32 GT-Rを購入後、「OPT女帝やすのGT-R日記」と題しステップアップ~ゴマメも含めレポート。
Rのローン終了後、フリーライターに転向。AMKREAD DRAGオフィシャルレポートや、頭文字D・湾岸MidNight・ナニワトモアレ等、講談社系車漫画のガイドブックを執筆。clicccarでは1981年から続くOPTION誌バックナンバーを紹介する「PlayBack the OPTION」、清水和夫・大井貴之・井出有治さんのアシスト等を担当。
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