OPT誌デビュー当時の「ターザン山田」ドキュメント。FJレースを見てレーサーを目指した幼気な少年だった!? その1【OPTION 1985年8月号より】

【幼少時代の英ちゃん】

生まれも育ちも奈良県の山奥。周りは山に囲まれ、自宅から徒歩10分くらいのところに吉野川が流れる。3人兄弟の末っ子。性格は気弱で人見知りが激しい。が、正義感は人一倍強い。スポーツ万能で、特に山で鍛えた足腰は強じん。そのおかげで、運動会ではいつもトップ。中学はサッカー部に入部。初めからレギュラー入りし活躍する。勉強は苦手。

普通、1年はボール拾いと声援と相場が決まっている。それに奈良はサッカーや野球が盛んなところで、レベルは高い。1年でレギュラー入りした英ちゃんが羨ましい。

しかし、サッカーは1年でピリオド。このまま続けていてもプロになるわけでもない。かといって勉強でどれだけやれるか分からない。これから先、みんなと同じパターンの生活が面白くないし、いい加減に生きているように思えてきたという。

その頃、兄がセリカに乗っていてクルマに多少、興味があった。近くに鈴鹿サーキットはあるし、ひょんなきっかけから見に行こうと決心。次の朝4時に起き、始発電車でサーキットまで足を運ぶ。ちょうどF2の開催日だった。

【レーサーに目覚める日】

「凄いなぁ、と思ったと同時に自分はこれだ! これしかないと思いまして。とにかく感激しました。苦しいかもしれないがレースをやれるものなら本気で、しかも死ぬ気で自分のすべてをかけてやろうと決心しました。中途半端な気持ちではやりたくなかった。高校へ行かなかったのも、その分、家の仕事(運送業)を手伝い、お金を貯めてました。実際、お金が無いとレースはやれませんからね」。

その後、18歳になるとすぐ免許を取得。が、クルマを買える余裕はなく、兄の乗っていたセリカをお古でもらう。そして1ヵ月後、コツコツ貯めていたお金でオスカーFJ1600を新車で購入。当時、150万円也。すぐ鈴鹿サーキットを走る。

この記事の著者

永光やすの 近影

永光やすの

「ジェミニZZ/Rに乗る女」としてOPTION誌取材を受けたのをきっかけに、1987年より10年ほど編集部に在籍、Dai稲田の世話役となる。1992年式BNR32 GT-Rを購入後、「OPT女帝やすのGT-R日記」と題しステップアップ~ゴマメも含めレポート。
Rのローン終了後、フリーライターに転向。AMKREAD DRAGオフィシャルレポートや、頭文字D・湾岸MidNight・ナニワトモアレ等、講談社系車漫画のガイドブックを執筆。clicccarでは1981年から続くOPTION誌バックナンバーを紹介する「PlayBack the OPTION」、清水和夫・大井貴之・井出有治さんのアシスト等を担当。
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