最高速テストドライバー「稲田大二郎」が誕生した日【OPTION1983年2月号・その1】

あまりに危険だ! あの北野元選手、突如出走中止!

【AM8:20】

待ちかねたかのように、1番手フォルテクス・スカイラインRSターボがコースに挑んだ。目標はRS最高記録、249.13km/hの大幅更新である。ドライバーは北野元。ストレートを駆け抜けるマシンの姿勢はいい。が、いま一歩、記録は伸びなかった。

次いで、SS久保ソアラ・ターボがスタートを切った。ドライバーはもちろん、津々見友彦である。5速6500rpm、車速263.73km/h! 最速ソアラの誕生である。オーナーが思わず「ヤッタ!」とVサインを掲げた。

3番手はATS・BM・Zが務めた。先頃のOPTノミネート戦で271.18km/hをマークした実力派。チューニングは、ATS・BMとスリーテックの共同開発。スリーテックといえば、GCカーはもとより、あの最速ドラッグZのチューナーでもある。狙うはもちろん、国産最速の座であり、300km/hの壁! ドライバーは北野元。そして、全開でバンクを駆け下り、勝負をかけた2ラップめ、計測地点で突風にあおられたのである。この時の回転数、5速8000rpm! 推定車速291.96km/h。国産最速記録である。が、それは幻と終わった…。

カメラマンの証言。「あの時、北野さんはバンクでも本当に踏んでいた。ガードレール、ギリギリのところを細かくスライドしながら走ってきたんだ。さすがというのか、撮っているボク自身、背筋がゾクッとするほどだった」。

マシンを降りた北野選手は、そのままヘルメットを脱ぎ、フーッと大きく深呼吸をひとつして、口を開いた。「このコンディションで、このテのマシンでは、全開にはできないよ。みんなもっと、自分の命を大事にしたほうがいい。最高速がどこまで伸びるかは、これじゃ度胸ひとつだ。ボクはとてもじゃないが、これ以上は走れない」。

もちろん、いくら最高速テストとはいえ、その時の条件下で(安全性のマージンを十分取った上で)ベストを尽くす以外にない。北野選手とて、そのことは十二分に承知だ。その上で、彼は次のように語る。

「ボクはいったん走るとなると、身を削る走り方しかできない。でなかったら、走らないかだ。でも、身を削るには、あまりにも危険が大きすぎる」。

あたかも自分自身に言い聞かせるように、そう語って北野元はマシンから離れた。

この記事の著者

永光やすの 近影

永光やすの

「ジェミニZZ/Rに乗る女」としてOPTION誌取材を受けたのをきっかけに、1987年より10年ほど編集部に在籍、Dai稲田の世話役となる。1992年式BNR32 GT-Rを購入後、「OPT女帝やすのGT-R日記」と題しステップアップ~ゴマメも含めレポート。
Rのローン終了後、フリーライターに転向。AMKREAD DRAGオフィシャルレポートや、頭文字D・湾岸MidNight・ナニワトモアレ等、講談社系車漫画のガイドブックを執筆。clicccarでは1981年から続くOPTION誌バックナンバーを紹介する「PlayBack the OPTION」、清水和夫・大井貴之・井出有治さんのアシスト等を担当。
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