〈MONDAY TALK星島浩/自伝的・爺ぃの独り言25〉 私の運命に響いたのは三栄書房・鈴木賢七郎初代社長の急死だ。
1963年5月の日本GPを元気に取材した社長が体調を崩し、入院したときは手術が施せない末期がんで、6月半ばに亡くなる。
跡目争いが難航した。最年少取締役の私は「とりあえず奥方を社長とし、子息・鈴木脩己(すずき おさみ)さんの大学卒業を待って跡を継がせるべし」と主張した。が、奥方は自動車をご存じない。クルマ好きとはいえ脩己さんは若すぎるとして、自薦他薦の社長候補が争いを演じた。
編集長の内部昇格案があり、外部招聘案もあったが、いずれも「帯に短したすきに長し」で、結局、奥方・長男ラインで収まったのだが。
そうなると、年少時から親しく、免許取得後は私の中古ルノーを乗り回していた鈴木脩己さんのバックに控える星島が実権を握るのではないか? それは許しがたいとの意見が少なからず。先刻、空気を読んでいた私が退社する条件で話し合いが決着した。
事実上クビだが、落ち度があったわけではない。残る1年半ほどの任期が終わったところで、次期役員に選任しない。進行中の仕事を後任に託したら出社せず、役員会にも出席しないと決めた。
話は同業出版社や執筆陣、モータースポーツ仲間にも広がり「どうやって食っていくのか」心配してくださる向きがある一方、三栄書房内からは「ざまァ見ろ」の声も聞こえた。不徳の致すところだが、先生方の推薦があって、ロードテスト参加と執筆はその後も続く。
モーターファン1963/8月号。初代社長の訃報が伝えられた。
クビになった直後に競合2社から好条件で誘われ、大メーカースポーツ部門からの打診もあった。ありがたいお話を固辞した訳は、輸入車試乗でお世話になった著名な音楽家と大手広告代理店を通じ、平凡出版(当時)が計画中の男性週刊誌に興味を覚えたためだ。
自動車専門誌を業界誌から脱皮させたのは「モーターファン」だが、男性週刊誌が若者相手にバイク&クルマを採り上げてくれそうだと聞いて期待が膨らみ、企画会議に出席して心が決まる。
誌名「平凡パンチ」—-柱は「オンナとファッション」。映画・音楽同様、バイク&クルマに関する情報提供と執筆を求められた。
創刊が64年4月下旬と聞いて思いついたのが5月3日に行われる第2回日本グランプリの直前情報—-早めに提出して意見を仰いだ。
要約すると「前年、コロナで優勝した式場壮吉(選手名敬称略)が、トヨタからカネをもらってポルシェ・プロトタイプを購入し、生沢轍を擁するプリンス勢をやっつけるのだ」と。創刊号に掲載された。
ところがトップ記事ではないのに、調査で「最も受けた記事」だったことから編集長兼任の清水達夫副社長に喚ばれ、社員じゃないので辞令は出なかったものの「クルマを柱の1本に据えたい」と、カーデスクの任に就くことになる。私にとって破格の契約金が毎号1万円で、原稿料が自動車誌とケタ違い。取材費も惜しまない。1年契約ながら、異存なくば自動更新と告げられ、結局、オイルショックで将来を案じた私が辞任を申し出る1974年6月まで10年間続いた。
折に触れ内外レースを採り上げたし、大島で行われたダートトライアルイベントに協賛してマシンを造ったりもしたが、好評を得たのは専門誌より早い新型車紹介と試乗レポートだった。中でもスポーティなモデルの注目度が高く「平凡パンチ誌が若者寄りにモータリゼーションを加速させた」との評価を知って嬉しかった。
当初は企画・取材・執筆から校正までおおかた独りでこなし、週刊誌の忙しさに参ったが、ヤナセを辞めて64年に傍系の平凡商事に転じていた渡辺靖彰さんがパンチ誌編集部に移ってきた時点で、やっと時間に余裕ができる。靖彰さんは独立後「モーターウィークリー」を主宰、日本カーオブザイヤー選考に尽力なさった方としても知られる。
望外の恩恵が海外取材だった。パンチ誌に限らず、平凡出版には多くの航空会社が広告を出稿。一部が航空券で支払われていた。社員の海外出張には手当の他、外貨購入や労組との話し合いも必要だが、契約執筆者扱いの私だと面倒がない。誌面に反映できる取材内容を伝えるだけで「航空券だけなら」と、容易に入手できた。
実際には当初500ドルと定められた持ち出し外貨では足りず、1ドル400円で買い足さねばならず、懐に響いたものの、お陰で当時としては比較的多く海外渡航を経験できた。台湾、香港、マカオに始まり、インディ500、ルマン24時間、ホンダ出場のF1GPレースばかりか、私が国際審査委員を務めた1967年のマン島TTレースや欧米新型車の発表・試乗会など—-往復航空券の恩恵が大きかった。★