自伝的・爺ぃの独り言・04 星島 浩 <トーハツ・パピー娘>

[MONDAY_TALK] 運輸省自動車局で説明図を描く孫請けアルバイトが縁で、モーターファン誌でも仕事ができるようになった私が唖然としたのは、その道の達人ばかりと思っていた編集部に、クルマを運転できる人が少なかったことだ。運転免許所持者が副編集長を含む3人だけとは!

 かくいう私も自動車運転免許はなく、原付に限られる許可証しか持っていなかったが、ある日「トーハツ・パピー娘」が6〜7台で編集部を訪れ、華やいだ空気に包まれたところで希望が生まれる。

 築地に通じる市場通りに面し、茅場町ロータリー交差点の直ぐ傍とはいえ未舗装の砂利道だったが、行き交う3輪トラックの運チャンまでが立ち止まって、若いパピー娘たちに拍手を贈ったもの。

 デモラン隊長格に促されても編集部に運転しようとする先輩がいないので「私でもいいですか?」と許可を得たのが、生まれて初めての新車試乗になった。記事を書く立場ではないが、パピー娘と一緒にロータリーを数周回した記憶が鮮やかに残る。50ccエンジンはトーハツ製。前輪駆動の珍しい原付で、京橋に本社、板橋に工場があった。

 モーターファン誌は1925年に創刊され、太平洋戦争中は英語誌名が使えず、複数の雑誌を統合して発行を続けたが、終戦後1947年に復刊。第一号の表紙を富士重工製スクーター=ラビットと子役時代を経てトップ女優になった高峰秀子さんが飾っている。余談ながらトーハツ・パピーのモデルは淡島千景さんだったと想う—-。

 当初モーターファンは業界誌の類で、裏表紙に8種もの3輪トラックが名刺大の広告を掲げていたくらいで、4輪や海外情報もあったが、多くがバイク、スクーター、3輪トラックの新型&技術紹介頁だった。

 なにしろバイクメーカーが100社を超えた時代である。四国や九州にもメーカーがあり、一説200社とも伝えられ、ほとんどが日大教授・景山克三先生をして「3ダイメーカー」といわしめた。

 ビッグスリーはホンダ、スズキ、ヤマハだが、当時は月産3台規模の小メーカーを指し、玄関脇の土間で改造自転車に50cc級2サイクルを取り付けたレベル。エンジンはガスデン、トーハツ製が多かった。

 むろん大排気量を積んだ本格バイクも存在。戦時中の「みずほ」名を元に戻したキャブトン。同じく戦前派にメグロと陸王があった。

 3ダイメーカーの50cc原付まで網羅したとは言えないが、新製品が発売されるとモーターファン誌が紹介と試乗レポートを載せる。

 東大名誉教授で明大教授でもある富塚清先生、初めは助教授だった日大の景山克三先生、一宮病院長=棚橋東一さん、運転技量に秀でた伊藤兵吉さん、メカと整備に詳しい斉藤一郎さんらが、毎号、試乗印象を執筆、メーカー社長や技術者とのインタビュー記事もあった。

 先生方の試乗は多くがメーカー本社を起点に行われたが、中には新型車を研究室やご自宅に届けるケースがある。品川から札の辻にかけての国道1号線に軒を連ねていたメーカー本社や販売店ショールームで拝借したバイクを、富塚先生だと駿河台の大学研究室、景山先生だと鷺宮のお住まい(当時)まで運び、試乗が終わるのを待って品川近くの店に返却するのだから、往復1時間も新型バイクを運転できる。

 願ってもないチャンスを逃してはならじと私が順次、軽自動車、自動二輪、普通免許を取得したことはいうまでもない。編集作業で忙しいときがチャンス。進んで新型車の運び役を申し出た。

 拝借に当たっては一通り説明を受ける。ギヤチェンジが右足であったり左足であったり、踏み込み式、蹴り上げ式、ロータリー式など操作方法が異なるから、変速と間違えて後輪ブレーキなんぞ強く踏もうものなら大変だ。走り始める前、くどいほど自分に言い聞かせた。

 それでも陸王初のシャフトドライブ式350ccバイクを運転したときは、スロットルを開ける都度トルク反動でクルマが傾くのを知るなど、いっぱし試乗レポーターになった気分を味わったもの。★