〈MONDAY TALK星島浩/自伝的・爺ぃの独り言23〉 今も悩む難聴はストマイ(注:ストマイ難聴=結核に用いられる抗生剤ストレプトマイシンに起因する副作用)のせいだが、お陰で右肺葉切除を宣告された重度の結核が僅かな痕跡を残して「もう大丈夫、思い切り働くんだナ」と医師から太鼓判を頂戴するほど快癒。1954年だった。
振り返れば幸運だ。ロードテストの下働きで目をかけてもらっていた隈部一雄先生に病状を話し「ひょっとすると、お会いできなくなるかもしれません」とご挨拶したところ「ちょっと待て。肺葉切除とは尋常じゃないが、一度、弟に相談しろ」と。その場で電話をかけてくださったのが、結核予防会のトップ医師=隈部英雄先生である。
言うまでもない。隈部一雄先生は東大教授からトヨタ副社長に迎えられ、技術開発面で多大な業績を残されたものの、労働争議を機に退任してクマベ研究所を設立。当時の東大教授・平尾収先生、同・亘理厚先生を率いてモーターファン・ロードテストの座長に就かれていた。
その弟君=隈部英雄先生の格別な計らいで毎週注射したストマイが、医師も驚く著効ぶりで、僅か1年半の療養で済んだのだから、再び下働きで隈部一雄先生にお会いしたときは涙が止まらなかった。
一旦は死を覚悟した身。好きなことを思う存分やらなきゃと、三栄書房正社員になったにも関わらずアルバイトに精を出し、モダンアート協会が主催する上野の展覧会に出品すべく絵画制作にも打ち込んだ。
折しも慶大を出て三越に勤めていた方が、実家の病院で忙しくなった事務職に就くため岡山へ帰る。ついてはルノー4CVを手放すと聞き、飛びついた。学生時代から乗っているというが、程度良好。業者見積もり額を少しマケて13万円でどうかと。即、手付け金を払う。
ただし手許に、ほぼ13万円あったが、スッカラカンは困る。ダメモトで母方の祖母に3万円貸して欲しいと頼んだ。祖母は再婚相手に先立たれた後、サービスエンジニアの息子=叔父一家と横浜で暮らしていた。私が幼時を過ごした藤村タクシーの大叔母は妹に当たる。
姿に似合わず勇ましい祖母で、受けた影響は小さくない。
「お金持ちと、アタマの良い人の数を勘定しないこと」—-意味は小学生時分にも直ぐ理解できた。
「他人を真似したりアイデアを盗まない」は絵とデザインを学び始めた後、常に心がけている。もう一つは
「男子もパンツと靴下は入浴時に自分で洗うもの」—-祖母と大叔母に躾けられた、毎日の洗濯は3歳以降、80歳を数える今も続く。
借金申し出に唯一の望みは「生活費はダメ。バクチもダメだが、遊ぶカネなら貸してあげる」—-恐る恐る3万円と切り出したら「何に使う?」と訊かれ「クルマを買う」と応えると「良し。貸そう」。
後で嫁=叔母の曰く「よく貸してもらえたわネ。おばァちゃんは8万円しか現金を持ってなかったはずョ」—-1956年1月である。
利息なし「元気なうちに返して」の約束だったが、3月から8月まで毎月5000円返済。開業まもない歌舞伎座に送迎付きで2度招待する。祖母が宝塚と関西歌舞伎のファンだったのを憶えていた。
4CVはOEM日野製の初代で横線6本グリル、トランク室はないが、コンパクトな外形なのに4ドアで、室内のフロアトンネル張り出しが小さく、好んで描くB全判大の絵が額縁付きですんなり後席に納まる。同年4月、上野美術館に持ち込んだ2点が2点とも初出品で初入選し、おまけにスポンサー付きの新人賞まで頂戴した。ただし、絵画で食べていけるとは思えず、その後、ほとんど活動していない。
さて4CVは850ccOHV 4気筒リヤエンジン。最高速度が辛うじて80㎞/h、上り坂も苦しかったが、暇ができると遠出した。うっかりしているとガソリンスタンドで係員が注水口を開けようとしたり、3速フロア式変速レバーの動きがセレクト(横)&シフト(縦)双方向とも大きくて、助手席乗員の右足に干渉しかねないなど困る? 場面もあったっけ。
車検を除く保守はおおかた自分でやった。部品・用品はポンコツ街で手に入ったし作業場もある。足回り劣化を機に再び中古4CVを購入。分解・補修・改造用を含めると都合3台の4CV所有歴がある。★