マツダ「ロードスター」を生んだ平井敏彦さん逝去。開発に込められた思い「欲をかかない」の本意とは?

■1990年にデビューしたロードスターは多くのファンを生み出した

NA型初代ロードスター(1989年)
NA型初代ロードスター(1989年)

個人的な話ですが、1990年、やっと大学を卒業し新入社員だった私は、デビューしたてのロードスターのカタログと見積もりを貰いに、ユーノス店へ行きました。その時の職場は埋立地の工事現場、現ハウステンボスで、雨になると泥濘(ぬかる)んで、晴れると砂埃に塗(まみ)れるという、とてもオープンスポーツカーで通うところではなかったため、とても欲しかったものの残念ながら購入を断念した覚えがあります。

このように、日本にここ30年ほど住んでいて、クルマが好き、運転を楽しみたい、愛車と言えるクルマを購入検討したい、といった経験のある人なら、誰しもが必ずと言っていいほどロードスターはその候補に上がった1台ではないでしょうか?

左から、初代NA、2代目NB、3代目NC、現行の4代目NDロードスター
左から、初代NA、2代目NB、3代目NC、現行の4代目NDロードスター

世界中で愛され、ファンならずとも「クルマの楽しさ」から我々を魅了し続けるマツダ「ロードスター」。その生まれた経緯には様々なストーリーがありますが、初代NA型の主査を務められた平井敏彦さんがいなければ、ロードスターは生まれなかったと言って過言ではありません。

マツダの初代ロードスター開発主査を務めた平井敏彦さんと平井さんがマツダに残した愛車、初代ロードスターV Special
マツダの初代ロードスター開発主査を務めた平井敏彦さんと平井さんがマツダに残した愛車、初代ロードスターV Special

平井敏彦さんが2023年4月11日に亡くなられました。平井敏彦さんは1935年生まれ、1961年東洋工業(現マツダ)に入社。1986年よりロードスターの担当責任者となり、1991年にマツダを退社され、その後、大分大学の講師などを務められていました。

マツダ・ロードスター990S(ボディカラー:ジルコンサンドメタリック)
マツダ・ロードスター990S(ボディカラー:ジルコンサンドメタリック)

その平井さんへの思い出について、NDロードスター開発主査の山本修弘さんに語ってもらいました。

NDロードスター開発主査だった山本修弘さん
NDロードスター開発主査だった山本修弘さん

ーー平井さんとのいちばんの思い出は、NDの開発をやってたころに、広島の本社近くの赤ちょうちんで「山本よー、車両の開発をしとるとついつい欲が出てしまう。けど、欲をかいちゃいかん」とよく言われました。それで、「ワシのクルマ置いてくけ、よく見ておけ」と当時の平井さんの愛車であるNAロードスターのV-Specialを置いていってくれたんです。

NA型ロードスターVスペシャル(1990年〜)
NA型ロードスターVスペシャル(1990年〜)

その車両は今は広報車としてメディアにも取り上げられることになっていますが、そのクルマを見るたびに、平井さんのおっしゃってた「欲をかいちゃいかん」との言葉を常に思い出します。本当に色々教えていただいたんで、安らかにお眠りいただきたいと思います。

この平井さんがおっしゃってた「欲をかいちゃいかん」という意味を言い換えると、「特別な装備、スペックで、高価な車両にして一部の人に届けるのでなく、多くの人に愛されることとなる、みんなの手の届く車両にすべき」と言えるでしょう。

1986年当時と言えば、バブル期に向かっていたとは言え、まだまだクルマに多くの夢を持たせたい時代。その夢とは高性能なパワートレインだったり、高品質な内装だったり、高価な装備群だったはずです。しかし、コンセプトが「誰にも手が届くスポーツカー」であり、マツダの最高位スポーツカーであるRX-7がありながら、その下のクラスのスポーツカーを作り上げることを希望する人はいなかったのでは? それができたのは平井さんだからでは? と思えるのです。

また、ロードスターを愛好する全国各地のクラブ同士をまとめたロードスター・クラブ・オブ・ジャパン(以下RCOJ)代表の水落正典さんによると、

ーー平井さんにしか生み出すことができなかったロードスターがあるからこそ、我々はいまここにいるんだと思います。

ロードスターオーナーが次のファンになってもらうためロードスター体験会「Roadster Experience」(写真は2023年2月11日)
ロードスターオーナーが次のファンになってもらうためロードスター体験会「Roadster Experience」(写真は2023年2月11日)

亡くなる2日前の日曜日に、マツダの横浜MRYでロードスターを体験してもらうというイベント「Roadster Experience」がありました。ロビーに展示した平井さんがマツダに寄贈した元愛車「NA6 Vスペシャル」に、2人の女子高生が乗り込み、大人を質問責めにしていました。

 

女子高生2名は、平井さんが残したロードスターに乗り込み、大人を質問攻めに
女子高生2名は、平井さんが残したロードスターに乗り込み、大人を質問攻めに

助手席でのロードスター体験ドライブから戻ったこの子たちは、「免許取ったら乗ります!」と言ってました。またこうして平井さんの生んだロードスターが若い世代に受け継がれていくのです。平井さんの生み出したロードスターのおかげで、私たちの人生はしあわせです。なんど感謝してもしきれませんが、もういちど言わせてください。ありがとうございました。

聞くところによると、最近では、ロードスターのミーティングが楽しそうで、それに参加するためにロードスターの購入を決める、というパターンもあるのだそうです。

ハードウェアとしての魅力に惚れてクルマ選びをしてきた我々世代(の特に男性?)には、少し考えづらい購入パターンですが、まさに、平井さんが目指した華美な装備でもなく、扱えないほどの速さや高性能ではなく、誰もが楽しめるクルマだからこそ、そういう選ばれ方をされる、まさに「欲をかかず」に作られてきたロードスターならではの買われ方と言えるでしょう。きっと平井さんもその選ばれ方を喜んでいるでしょう。

世界的に見ても、歴史ある高級ブランド、少量生産でない乗用車メーカーがスポーツカーの生産を続けることは容易ではない現在、30年以上も同一車名とコンセプトで続けて来られたマツダは奇跡的とも言えるし、平井さんの「足るを知る」とも言いかえられる「欲をかかない」コンセプトがあったからというのに間違いありません。

マツダミュージアムには早速、平井さんの写真とNAロードスターのミニカーを展示
マツダミュージアムには早速、平井さんの写真とNAロードスターのミニカーを展示

世界でも最も成功したスポーツカー「ロードスター」を生み出した平井さんのご冥福をお祈りしつつ、生産されるロードスターとそのファンの関係がこれからもずっと続いていくことを願いたいと思います。

(文:クリッカー編集長 小林和久)

この記事の著者

小林和久 近影

小林和久

子供の頃から自動車に興味を持ち、それを作る側になりたくて工学部に進み、某自動車部品メーカへの就職を決めかけていたのに広い視野で車が見られなくなりそうだと思い辞退。他業界へ就職するも、働き出すと出身学部や理系や文系など関係ないと思い、出版社である三栄書房へ。
その後、硬め柔らかめ色々な自動車雑誌を(たらい回しに?)経たおかげで、広く(浅く?)車の知識が身に付くことに。2010年12月のクリッカー「創刊」より編集長を務めた。大きい、小さい、速い、遅いなど極端な車がホントは好き。
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