トヨタ「パブリカ」は大衆(パブリック)の車(カー)が語源。トヨタの底辺を司るスターレット、ヴィッツ、ヤリスの元祖【歴史に残る車と技術010】

■大衆車の先陣を切って小型市場を活性化したパブリカ

1961年にデビューした小型大衆車パブリカ
1961年にデビューした小型大衆車パブリカ

1961(昭和36)年6月30日、トヨタから小型大衆車の切り札として「パブリカ」がデビューしました。1955年に政府が提唱した“国民車構想”に対するトヨタの回答がパブリカであり、日本の大衆車の先陣を切って、小型車市場の活性化の一翼を担った車です。


●高級車クラウン、中型大衆車コロナに続いた小型大衆車パブリカ

1955年に誕生した初代クラウン(トヨペットクラウン)。日本初の純国産車
1955年に誕生した初代クラウン(トヨペットクラウン)。日本初の純国産車

1933年に豊田織機内に設立した自動車部をルーツとするトヨタは、“日本人の手で日本人のための国産車を作る”という理念のもと、1955年に完全オリジナルの高級乗用車「トヨペットクラウン(初代クラウン)」を発売。世界レベルを目指したトヨペットクラウンには、多くの先進的な技術が投入され、外国部品で組み立てられていた当時の国内車より高く評価されました。

1957年には、クラウンに続いて中型大衆車「トヨペットコロナ」を投入。トヨタ初のモノコック構造を採用し、クラウンやトヨペットマスターの部品を流用しながら、日産自動車の「ダットサン110/210型」に対抗しました。この流れで1961年に登場したのが、小型大衆車「パブリカ」でした。

1957年にデビューした初代トヨペットコロナ
1957年にデビューした初代トヨペットコロナ

当時、車は今以上にステータスシンボルとなる高級品でした。たとえば、会社幹部はクラウン、管理職はコロナ、若者やファミリー層はパブリカというようにターゲットを定め、3つのモデルを戦略的に棲み分けし、トヨタはフルラインメーカーとして歩み始めたのです。

●国民車構想の具現化を目指したパブリカ

パブリカのリアビュー
パブリカのリアビュー

国民車構想は、1955年に政府が乗用車の開発を促進するために提唱したもので、規定の条件(排気量350~500ccで最高時速100km/h以上と車速60km/hでの燃費30km/Lを達成し、定員4名で販売価格25万円以下)を満たした場合に、国がその製造と販売を支援するという内容です。

この国民車構想にトヨタが呼応したパブリカは、コンパクトながら十分なキャビンと荷室スペースを確保した3ボックスの2ドアセダンでした。パワートレインは700cc直2水平対向の空冷OHVエンジンと4速MTの組み合わせ、駆動方式はFRでした。

パブリカの主要スペック
パブリカの主要スペック

水平対向エンジンと言えば現在の日本メーカーではスバルの看板技術ですが、当時トヨタはパブリカ以外にも、1965年にデビューした「トヨタS800(通称ヨタハチ)」も水平対向エンジンを搭載していました。

エンジンの出力は平凡でしたが、当時としては珍しいフルモノコックボディによって、車両重量は580kgと超軽量だったため、国民車構想の条件をクリアする燃費31km/L(車速60km/h)と最高速110km/hを達成しました。

●国民車構想を満足する車の実現は困難だった

当時としては、優れた性能と実用性を兼ね備えたパブリカでしたが、当初の販売は期待したほど伸びませんでした。コストダウンを意識するあまり、単一グレードのみで装備も簡素であったことが理由でしたが、その後の商品力強化によって販売は徐々に持ち直し、堅調に推移しました。

車両価格は38.9万円で、当時の大卒の初任給は、1.5万円(現在は約23万円)程度、単純計算では現在の価値で約600万円になります。実際のところ、性能は国民車構想の条件をクリアしても、価格の条件であった25万円以下に抑えることは、当時の技術では非現実的だったのです。

結局、自工会が達成不可能と表明するなどして、国民車構想そのものは不発に終わりましたが、日本の自動車技術を急速に進化させて、モータリゼーションに火を付けた意義は大きいと評価されています。

●パブリカは現在販売トップを争う人気モデル「ヤリス」の元祖

1970年にデビューしたパブリカスターレット(初代スターレット)
1970年にデビューしたパブリカスターレット(初代スターレット)

パブリカは、その後1970年にパブリカの派生モデルとして「パブリカスターレット」を設定、1978年には車名が「スターレット」の単独ネームになりました。

スターレットは、女性向けのエントリーモデルから“カッとびスターレット”と呼ばれたスポーティなモデルまで多彩なバリエーションを用意して、その後20年以上にわたり低価格のコンパクトカーとして広い層に支持されました。

1999年にデビューしたスターレットの後継にあたるヴィッツ
1999年にデビューしたスターレットの後継にあたるヴィッツ
2020年にデビューしたヴィッツの後継にあたる新型ヤリス
2020年にデビューしたヴィッツの後継にあたる新型ヤリス

そのスターレットは、5代目を最後に1999年に「ヴィッツ」へバトンタッチ。引き継いだヴィッツは、世界のコンパクトカーを変えたとまで言われた大ヒットモデルになりました。

そして2020年には、ヴィッツは海外名「ヤリス」を名乗るようになって、現在も高い人気を誇っています。

パブリカは、決して大ヒットしたわけではありませんが、コンパクトカーの歴史を切り開き、その後車名は変わりましたが、60年間以上トヨタのコンパクトカーの王道を歩み続けているのです。

●パブリカが誕生した1961年は、どんな年?

1961年には、日野自動車から「コンテッサ900」が発売されました。日野自動車は、戦時中に軍用車を作っていましたが、戦後はトラックやバスを生産し、一時期小型車事業にも進出していました。

1952年に日野自動車は、ルノーとの製造・販売提携を結び、「ルノー4CV」の生産ライセンスを取得。1953年から、「日野ルノー」としてノックダウン(部品を輸入して国内で組み立てる)方式で生産を始めました。そして、ルノーの生産・開発技術を習得し、ルノーとの提携終了を機に、1961年からコンテッサ900の生産を開始したのです。

日野コンテッサは、メカニズムはルノー4CVをベースにしていましたが、スタイリングは全く異なり、パワートレインは最高出力35PSを発揮する900cc直4 OHVエンジンと3速MTの組み合わせ、駆動方式はRRでした。コンテッサは、第1回日本GPでクラス優勝するなどモータースポーツでも活躍しました。

そのほか、この年にはソ連が人類初の有人宇宙飛行(搭乗は、ガガーリン飛行士)に成功、横浜マリンタワーが開業しました。また、明治製菓のマーブルチョコレートが30円で販売開始、ガソリン44円/L、ビール大瓶125円、コーヒー一杯62円、ラーメン48円、カレー112円、吉野家牛丼120円、アンパン12円の時代でした。


大衆車の先陣を切って登場し、日本のモータリゼーションの火付け役となったパブリカ。日本の歴史に残る車であることに、間違いありません。

Mr.ソラン

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Mr. ソラン 近影

Mr. ソラン

某自動車メーカーで30年以上、自動車の研究開発に携わってきた経験を持ち、古い技術から最新の技術までをやさしく解説することをモットーに執筆中。もともとはエンジン屋で、失敗や挫折を繰り返しながら、さまざまなエンジンの開発にチャレンジしてきました。
EVや燃料電池の開発が加速する一方で、内燃機関の熱効率はどこまで上げられるのか、まだまだ頑張れるはず、と考えて日々精進しています。夢は、好きな車で、大好きなワンコと一緒に、日本中の世界遺産を見て回ることです。
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