なぜ軽自動車でなかった? 三菱初の独自開発乗用車は小型車「三菱500」だった【歴史に残る車と技術008】

■国民車構想の具現化にチャレンジした三菱500

1960年にデビューした三菱初の乗用車である三菱500
1960年にデビューした三菱初の乗用車である三菱500

戦後、本格的に乗用車事業に進出した新三菱重工(三菱自動車の前身)から、1960(昭和35)年に三菱初の独自開発となる乗用車「三菱500」がデビューしました。

三菱500は、1955年に政府が乗用車の開発を促進するために発表した、国民車構想に呼応した小型乗用車です。


●戦前に日本初の量産乗用車「三菱A型」を生産

三菱自動車の源流は三菱重工であり、1970年に三菱重工の自動車部門が独立して設立されました。また三菱重工の歴史は古く、1870年に岩崎弥太郎氏が設立した海運会社の九十九商会を起源とし、1884年に長崎造船所として設立され、その後、三菱グループ中核の重工業メーカーとなりました。

1919年に生産された三菱A型(レプリカ)。すべて手作りの国産品で作られた7人乗りガソリン乗用車(1)
1919年に生産された三菱A型(レプリカ)。すべて手作りの国産品で作られた7人乗りガソリン乗用車

自動車との関りは、長崎造船所の後継となる三菱造船が、陸軍の要請に応じて1919年に日本初の量産乗用車「三菱A型」を製造したことに始まります。

三菱A型は、軍事強化策で航空機の生産に主力を移すという事情もあって、2年間でわずか22台のみで生産中止となりましたが、まとまった数量を見込んで生産・販売したことで、日本初の量産乗用車という栄誉に輝いています。

1934年に三菱重工業に名称を変更し、戦時中は主に戦艦・武蔵や戦闘機・ゼロ戦、トラックなどを製造し、日本有数の重工業企業へと成長。ちなみに、ゼロ戦を設計したのは、10年ほど前にヒットしたアニメ映画「風立ちぬ」の主人公として描かれた堀越二郎氏です。

●戦後は、三菱ジープのノックダウン生産でスタート

戦後の1950年、中日本重工業(後の三菱重工)は、ジープを製造していた米国ウイルス・オーバーランド社と提携してノックダウン生産(部品の状態で輸入して、販売先で組み立てる方法)を始めました。

1953年に登場した三菱ジープJ3
1953年に登場した三菱ジープJ3

1953年にライセンス契約生産を取得して「三菱ジープ」の生産を開始、1956年には自社エンジンを搭載して三菱ジープの完全国産化を果たします。

三菱ジープは、悪路に強い小型4輪駆動車として、また自衛隊の専用車両として、その後長くバリエーションを増やしながら進化したのです。

そして、1970年に三菱重工の自動車部門が分離独立して三菱自動車が設立。1982年には、ジープの開発で培った技術を生かして、名車「パジェロ」が誕生しました。

結局、三菱ジープは、1996年に排ガス規制に対応しきれなくなったことから、自衛隊用車両はパジェロベースの4輪駆動車に切り替えられましたが、ショートボディ「50系」は、ジープを愛するマニアから絶大な人気を得て、1998年まで販売されました。

●国民車構想にチャレンジしたクルマ

1960年に登場した「三菱500」は、1955年に政府が乗用車の開発を促進するために発表した、国民車構想を目標に開発されました。国民車構想とは、下記の要件を満たす自動車の開発に成功すれば、国がその製造と販売を支援するという内容です。

・定員4人、排気量350~500cc
・最高時速100km/h以上、車速60km/hの燃費30km/L
・販売価格25万円以下、月産3000台以上、など

1958年にデビューして大ヒットしたスバル360
1958年にデビューして大ヒットしたスバル360

この国民車構想に応える形で三菱500以外にも、富士重工(現、スバル)「スバル360(1958年~)」やマツダ「R360クーペ(1960年~)」、トヨタ「パブリカ(1961年~)」などがデビューしました。

しかし、実際には目標が高すぎて、国民車構想の条件をすべてクリアするクルマは誕生しませんでした。販売価格25万円以下では、提示された高い目標性能を達成できなかったのです。

結局、自工会が達成不可能と表明するなどして、国民車構想そのものは不発に終わりましたが、日本の自動車技術を急速に進化させて、モータリゼーションに火を付けた意義は大きいと評価されています。

●安価な小型車を目指して航空機技術者が開発した三菱500

三菱500は、2ドアの先進的なモノコックボディのシンプルな3ボックススタイル。パワートレーンは、500cc空冷直列2気筒 OHVエンジンと3速MTの組み合わせで、エンジンをリアに搭載したRR(リアエンジン・リア駆動)レイアウトが採用されました。

三菱500の主要スペック
三菱500の主要スペック

開発メンバーの多くは、航空機部門の出身者で、かつてはゼロ戦など数々の名航空機の開発者をルーツとするエンジニアであったため、技術的には優れたクルマでした。

販売価格は39万円と小型車としては異例の安さでしたが、当時の大卒初任給は1.3万円程度なので、単純計算で現在の価値では約890万円と、まだまだ一般庶民には高価な買い物でした。

機能面では優れていた三菱500も販売は低迷しました。多くのライバルメーカーが、税金や車検制度(軽には車検がなかった)の点で有利な軽自動車から参入したのに対して、排気量の大きい三菱500は維持費面で不利だったのです。三菱も翌1961年に軽自動車「三菱360」を発売しました。

三菱500の生産台数は約2年間1.5万台程度で終わり、三菱初の小型車参入は必ずしも成功とは言えませんでした。

●三菱500が誕生した1960年は、どんな年

1960年にデビューしたマツダ初の乗用車R360クーペ
1960年にデビューしたマツダ初の乗用車R360クーペ

1960年5月には、東洋工業(現、マツダ)初の乗用車「R360クーペ」が車両価格30万円で発売されました。

戦中・戦後に3輪トラックで成功した東洋工業が満を持して市場に投入した初の軽乗用車クーペであり、すでに大人気となっていた「スバル360」(1958年に42.5万円で発売)の対抗馬としてデビューし、スバル360に続く人気を獲得しました。

また同年には、日産自動車の高級車「セドリック」もデビュー。1955年にデビューしたトヨタ「トヨペットクラウン」の対抗馬として登場し、その車両価格は101万円でした。今なら約1800万円相当なので、まさに高嶺の花の高級車です。

そのほか、世界初となるソニーの「トランジスターテレビ」が発売されてカラーテレビの放送が開始。白黒TVは5万円(14型)で普及率は45%、カラーTVは42万円(17型)でした。また、ビール大瓶125円、コーヒー1杯60円、ラーメン45円、カレー110円、吉野家牛丼の120円、アンパン12円の時代でした。


日本初の量産乗用車の三菱A型の流れを汲み、三菱重工の航空機技術をベースにした三菱500、日本の歴史に残る車であることに、間違いありません。

Mr.ソラン

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Mr. ソラン

某自動車メーカーで30年以上、自動車の研究開発に携わってきた経験を持ち、古い技術から最新の技術までをやさしく解説することをモットーに執筆中。もともとはエンジン屋で、失敗や挫折を繰り返しながら、さまざまなエンジンの開発にチャレンジしてきました。
EVや燃料電池の開発が加速する一方で、内燃機関の熱効率はどこまで上げられるのか、まだまだ頑張れるはず、と考えて日々精進しています。夢は、好きな車で、大好きなワンコと一緒に、日本中の世界遺産を見て回ることです。
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