米スリーマイル島で原発事故/WGP125ccチャンプの青木治親生まれる/子供用自動車ダットサン・ベビイが復活!【今日は何の日?3月28日】

■米国スリーマイル島で原発事故が発生

1979年3月28日、米国ペンシルベニア州のスリーマイル島原子力発電所で、放射能漏れの事故が発生。緊急避難指令によって、周辺3000人を超える大規模な避難が行われました。運良く放射能漏れによる人的被害は軽微でしたが、世界で初めて起きた原発事故だったことから、原子力発電の安全性について再考する契機となったそうです。

3月28日には、女優の水野真紀、俳優の的場浩司と伊武雅刀、バイクレーサーの青木治親、相撲の北の富士勝昭、作詞家の岩谷時子、米国シンガーのレディ・ガガなどが生まれています。本日紹介するのは、WGPチャンピオンの青木治親です。

●WGP125ccクラスで2年連続チャンピオンに輝いた青木治親が誕生

青木治親(引用:Auto RaceHP)
青木治親(引用:Auto RaceHP)

青木治親は1976年3月28日、群馬県北群馬郡子持村で青木3兄弟の末っ子として生まれました。長男の宣篤、次男の拓磨ともレーサーですが、3兄弟は子供の頃からバイクファンには知られた存在でした。治親は6歳の頃から、父親が作った裏庭のコースで兄達とともにポケバイで競いながら腕を磨きます。1992年16歳でロードレースデビューを飾ると、その年の鈴鹿4時間耐久ロードレーサーで早速優勝を果たします。

翌年1993年には国際A級に昇格してWGPにフル参戦。勢いそのまま、1995年と96年に2年連続で125ccクラスのチャンピオンに輝きます。また、1995年の日本GPで治親が125ccクラスで優勝した時には、250ccクラスで長男宣篤が2位、500ccクラスで次男拓磨が3位と、3兄弟でWGP各クラス表彰台獲得という驚きの記録を達成しました。

その後、250ccクラスと500ccクラスへ挑戦するも、上位にはなかなか食い込めず、2003年にWGPから撤退します。ここで一生レーサーでありたいという想いからオートレースに転向。現在は、オートレース界で活躍しています。

さて、クルマ界の今日は何があったのでしょうか?

●本格的な子供用自動車のダットサン・ベビイが50年ぶりに復活!

2015(平成27)年3月28日、日産のグローバル本社ギャラリーに小さな赤いクルマ「ダットサン・ベビイ」が展示されました。ダットサン・ベビイは1965(昭和40)年、神奈川県横浜市のレジャー施設「こどもの国」の開園を記念して、日産が園内を走る子供用自動車として製作、寄贈したものです。再生したのは日産名車再生クラブで、こどもの国開園50周年記念のためにレストアしたのです。

1965年に製作されたダットサン・ベイビ
1965年に製作されたダットサン・ベイビ

子供用の自動車といっても、当時愛知機械工業から販売されていた2人乗りの小型トラック「コニー・グッピー」をベースに、本格的で高度なメカニズムが採用されていました。パワートレインは199ccの空冷2ストローク単気筒エンジンに、変速機構なしのトルコン付きトランスミッションを装備。サスペンションはフロントがダブルウィッシュボーン、リアがトレーリングアームという本格的なものでブレーキはドラム式。認可を受ければ一般路でも走れるようなマイクロカーですが、園内では車速が20km/hを超えると警報が鳴り、30km/hになるとエンジンがカットオフされるように安全性に配慮されていました。

1965年当時のこどもの国とダットサン・ベビイの様子
1965年当時のこどもの国とダットサン・ベビイの様子

昭和40年代は、大人も子供もクルマに憧れていた時代。多くの子供たちが本物さながらのダットサン・ベビイに乗り、大人になったらかっこいいクルマに乗りたいとか、レーサーになりたい、エンジニアになりたいと思ったのでしょう。

毎日が何かの記念日。今日がなにかの記念日になるかも知れません。

Mr.ソラン

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Mr. ソラン

某自動車メーカーで30年以上、自動車の研究開発に携わってきた経験を持ち、古い技術から最新の技術までをやさしく解説することをモットーに執筆中。もともとはエンジン屋で、失敗や挫折を繰り返しながら、さまざまなエンジンの開発にチャレンジしてきました。
EVや燃料電池の開発が加速する一方で、内燃機関の熱効率はどこまで上げられるのか、まだまだ頑張れるはず、と考えて日々精進しています。夢は、好きな車で、大好きなワンコと一緒に、日本中の世界遺産を見て回ることです。
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