石橋正二郎とは?世界有数のタイヤメーカー「ブリヂストン」の創業者【自動車用語辞典:クルマの偉人編】

■ブリヂストンという屋号は、石橋正二郎の石(ストン)と橋(ブリッジ)に由来

●ゴム底足袋やゴム靴の製造業からタイヤ製造に方向転換して成功

ブリヂストンという屋号は、創業者の石橋正二郎の石(ストン)と橋(ブリッジ)から由来しているのは有名な話です。石橋正二郎は、ゴム底足袋やゴム靴の製造業に始まり、最終的に世界有数のクルマのタイヤメーカーに成長させた企業家です。

傑出した経営能力を発揮し、芸術文化活動の振興にも尽力した石橋正二郎について、解説していきます。

石橋正二郎
石橋正二郎(写真:Wikipedia @public domain)

●石橋正二郎のヒストリー

・1889年(M22):福岡県久留米市に誕生

・1906年(M39):久留米商業学校を卒業、家業の着物の仕立て屋を継ぐ。

・1918年(T7):仕立て屋の将来に不安を抱き、日本足袋を設立(兄の徳次郎が社長)

地下足袋の発明やゴム靴の生産に成功

・1931年(S6):ブリヂストンタイヤ株式会社を設立、社長としてゴム工業へ本格参入

・1942年(S17):社名を日本タイヤに改称

・1951年(S26):社名をブリヂストンに戻す

・1956年(S31):文化事業を柱にする財団法人石橋財団設立、理事長に就任

・1963年(S38):ブリヂストンタイヤ代表取締役会長就任

・1973年(S48):ブリヂストンタイヤ取締役相談役就任

・1976年(S51):87歳で死去

・2002年(H14):日本自動車殿堂入り

・2006年(H18):米国自動車殿堂入り

●功績

足袋製造に進出した時に、衣食住を保証する代わりに賃金を払わない徒弟制を廃止して、給与性を採用するなど近代的な雇用制を導入しました。また、サイズにかかわらず価格を均一にすることでセールスを伸ばし、足袋メーカーとして成功を果たしました。

底にゴムを貼り付けた地下足袋を作り、また世の中が洋装に変るタイミングをとらえて布製のゴム底靴に着目して、いち早く製造に着手しました。

自動車が急速に普及することを予測して、ブリヂストンタイヤを設立しました。タイヤの開発を始めて販売し始めたものの、当初は品質の問題から販売は低迷しました。改良を続けながら、問題が出れば新品タイヤに交換するなど思い切った品質保証制度によって、市場の信頼性を徐々に得ることができ、その後販売は躍進しました。

初期のタイヤは、比較的製造が容易なバイアス構造のタイヤが主流でした。ラジアルタイヤの開発に注力し、1962年には国産初のラジアルタイヤを完成させました。1971年には、斬新なトレッドパターンの「RD-201」ラジアルタイヤを大ヒットさせました。

●エピソード

・タイヤ事業を始める時に、兄の徳次郎社長ほか周囲の人全員に大反対されました。唯一賛成したのが九州帝国大学応用化学科の君島教授ですが、日本足袋の年間利益相当分の研究開発費を投じて捨てる覚悟があるなら、全面的に協力すると言われたそうです。

・ブリヂストンという屋号は、創業者の石橋正二郎の石(ストン)と橋(ブリッジ)から由来しているのは有名な話です。当時主流であった海外ブランドのタイヤに負けないためには、英語の会社名、製品名を付ける必要がありました。当初はストンブリッドの案で進められてたようですが、最終的には語呂合わせがよいブリヂストンになりました。

・趣味の絵画収集を生かし、私財を投じて芸術文化活動の振興に尽力しました。「世の人々の楽しみと幸福のために」をモットーに、石橋財団を創設して東京国立近代美術館の建物やヴェネチアのビエンナーレ日本館を建設しました。現在も、その遺志を継いで美術館活動や芸術、教育活動を支援する寄付助成活動が進められています。


石橋正二郎は技術者でないため、何かを自ら発明して作り出したわけではありません。クルマの普及を予測して地下足袋製造からタイヤ製造へと大きく方向転換し、日本有数の企業に発展させた先見性と決断力には、類稀な経営者としての資質がうかがえます。

(Mr.ソラン)

この記事の著者

Mr. ソラン 近影

Mr. ソラン

某自動車メーカーで30年以上、自動車の研究開発に携わってきた経験を持ち、古い技術から最新の技術までをやさしく解説することをモットーに執筆中。もともとはエンジン屋で、失敗や挫折を繰り返しながら、さまざまなエンジンの開発にチャレンジしてきました。
EVや燃料電池の開発が加速する一方で、内燃機関の熱効率はどこまで上げられるのか、まだまだ頑張れるはず、と考えて日々精進しています。夢は、好きな車で、大好きなワンコと一緒に、日本中の世界遺産を見て回ることです。
続きを見る
閉じる