「真面目に作りすぎてイマイチ」だったレオーネを、大ヒット作・レガシィに生まれ変わらせた執念とは?【クルマ塾・SUBARU編】

大林さんが入社したのは1970年、レオーネの開発の終盤のタイミングでした。衝突安全対策、排ガス対策、ボディバリエーションの拡充など、時代の要請も多く、多忙だったようです。ただ、合理性を追求するだけではなかなかセールスに結びつかなかったようです。当時のレオーネに足りなかったのは「エモーション」だったのです。

1972年に東北電力からのオーダーで試作した、国産初の乗用4WDが誕生しました。スキー場でも、ぐいぐい登っていく様は、過去の常識にとらわれない百瀬さんの思想に通じるものがあったといいます。

そして時は過ぎ、レオーネの課題を解決するべく、初代レガシィの開発が進められました。85年のプラザ合意により起こった急激な円高(240円から120円へ)で、米国市場が極端に不振になりました。そんな状況において、エンジン、ボディ、シャーシすべてをゼロから開発する英断をしました。おりしも新テストコースも完成したばかりで、会社としても赤字覚悟というか、実際に赤字だった時期でした。

ブランニューモデルを開発するにあたって掲げられたのは「走り込んで仕上げる」「設計と実験の一本化」「モータースポーツで得たノウハウの注入」「専門用語を避け、平易な言葉を使う」などの指針でした。いずれも、現在のスバル車にも連綿と引き継がれてきていると感じます。

これまでにない、新しいものに挑戦するエンジニアの姿がそこにはあります。基本に忠実に開発した結果、その後20年以上にわたって使われるプラットフォームが完成したのでした。