「真面目に作りすぎてイマイチ」だったレオーネを、大ヒット作・レガシィに生まれ変わらせた執念とは?【クルマ塾・SUBARU編】

スバル360で成功し資金ができたので開発に着手できたのが「スバル1000」でした。1962~1963年のことでした。おりしもその頃は名神高速道路が部分開通した時代。100km/h巡航の時代に即した性能が求められました。

開発当初は、FFレイアウトにするかFRにするかで喧々囂々だったそうです。結局、プロペラシャフトを通すスペース確保と振動の問題からFR化は見送られたそうです。ただしFFレイアウトとはいえ、さまざまな問題が勃発しました。

駆動軸とクロスメンバーの干渉や、Wウィッシュボーンのスペース確保に難儀したり、当時はまだ等速ジョイントの入手も難しかったり、なによりFFでは狙ったとおりの登坂性能が達成できず、開発は山あり谷ありだったそうです。

そんな苦労を経て1963年に完成した試作車は水平対向空冷エンジンでした。この頃からサッシュレスボディでした。そして1966年、量産版がデビューしました。

「独自性がないと大手メーカーに吸収されてしまう」という当時のエンジニアのプライドが詰まったクルマとなりました。

当時は冷却水を「夏用・冬用」で交換していた時代でした。冷却水のメーカーと一緒に研究開発し、アルミにダメージの少ない冷却水が完成しました。アクスルシャフトも、最後まで振動との闘いだったそうです。こちらも部品メーカーと共同開発し、発売3週間前にやっと完成したという、奇跡のスケジュールだったそうです。

ディスクブレーキやラジアルタイヤ、シートベルトアンカーなど今では当たり前の装備をいち早く備えていたスバル1000は、世の中にFF車が普及するフックとなりました。その後のスバルの運命を決めました。

1966年に完成した新たなテストコースでは、バリアを作り衝突試験を開始しました。当時は、前のクルマとワイヤーでつなぎ、引っ張って衝突させる方式だったそうです。