R31でのモータースポーツ活動は、とくにインターTECでは常勝ボルボに太刀打ちできない歯がゆい状況でした。ファンにはRBエンジンをボロクソに言われ「レースに負けるスカイラインの姿は見たくない」と酷評もされました。
その悔しさから、伊藤さんの心に「世界チャンピオンになろう」という思いが芽生えました。ベース車両としての「走りのスカイライン」が完成できそうだという確信を背景に、イメージリーダーカーの必要性を役員会に提案しました。それが、伝説のGT-Rブランドの復活でした。
企画を通すために当時、高級・高性能をアピールしていたソアラを仮想敵に挙げ「GT-Rの誕生で、ソアラのイメージを陳腐化させることができます」とプレゼンしたそうです。
「レースでの必勝」を掲げスタートしたGT-Rの開発ですが、当初は中近東向けの2.4リッターのブロックを使って進められていました。
リッターあたり120馬力以上が目標だったので、マグネシウムなどの素材を使いながらなんとか420馬力を達成。富士スピードウェイのLAPで1分37秒38だったインターTECのボルボを上回るタイムを記録できそうでしたが、85年にはジャガーが1分35秒台を刻むほどマシンは進化していました。
これでは2.4リッターでは太刀打ちできないと、排気量アップに踏み切ります。目標は525馬力。そして、当時開発を担当していたニスモや長谷見さんからの「2WDは危ない」との指摘を受け、4WDにすることを決断します。
当時、研究開発中だったアテーサE-TSを採用するにあたって、アテーサ付きの3リッターターボを載せたR31の試作車に乗ったところ、アクセルを踏めばアンダーも消え、いい感じでした。これで、採用が決定しました。
センターデフに関しては、強大なパワーに耐久性の心配がありました。当時のパルサーGTI-R用のビスカスカップリングを採用するか最後まで悩んだそうです。その名残で、アンダーボディにはビスカスが入るスペースが残ったままになっているそうです。