オフロードへの不屈の挑戦! 新型モデルのルーツとなるモデルとは?【意外と知らないクルマメーカーの歴史・ランボルギーニ編】

青山通りから神宮橋交差点にかけてのロングストレート。いわゆる表参道です。両脇にはお洒落なブティックが立ち並び、ファッションやグルメなどの最新トレンドに敏感な人々で常に賑わっています。

ワタクシも大学が近くだったため足を運ぶ機会は多かったのですが、目的はファッションでもグルメでもありません。そうこうしている間に、どうやら現れたようです。

空気を震わせる轟音。その高まりとともに青山通りを駆け抜けていくのは、戦闘機のように洗練されたルックスの持ち主……ランボルギーニです。

イタリア製スーパーカーとしてフェラーリと並んで有名ですが、そのスタイルやパフォーマンスの過激さではランボルギーニが上。市販されているモデルはすべて10気筒もしくは12気筒エンジンが搭載され、最高速度は300km/hを下回ることはありません。

ルックスとパフォーマンスの過激さを期待され、それに応えてきたランボルギーニ。17年12月4日には新型モデル「ウルス」の公開が予定されています。

写真からも分かるように「ウルス」はSUVです。現在のラインナップの中では異色の存在であり、「これがランボルギーニ!?」と驚きの声をあげる人もいるかもしれません。

しかし、ランボルギーニは創業時からスーパーカーづくりを行なっていたわけではありません。創業者のフェルッチョ・ランボルギーニは第二次世界大戦直後に軍が手放したトラックを民生用に改造することを生業とし、そのほかにもトラクターやエアコンやボイラーなどスーパーカーとは無縁の物を手掛けていたのは有名な話です。

そんなランボルギーニがスーパーカーづくりに本腰を上げたのが1960年代のこと。すでに巨万の富を築いたフェルッチョ・ランボルギーニは数々のクルマを所有していましたが、いずれの性能にも満足できず、自らでクルマを製作することを決意。ボローニャから25km離れた村に工場を建設し、1963年にフェルッチョ・ランボルギーニ自動車会社を設立。V型12気筒エンジンを流線型ボディに搭載した「350GTV」をトリノモーターショーでお披露目し、華々しいデビューを飾りました。

そのデビューから間髪入れずに、4.0L V12エンジンを横置きした「400GT」や、280km/hという最高速度とユニークなルックスを兼ね備えた「ミウラ」を発売し、1967年には高級車の世界での成功を収めました。その後は4人乗りの「ISLERO」や「ESPADA」をラインナップに加え、イタリア製グランツーリズモとして確固たる地位を確立させました。

しかし、1970年代にランボルギーニは苦境に立たされます。ボリビアで勃発したクーデターの影響で、親会社と政府の間で締結していた5000台ものトラクター購入契約が白紙となり、さらに労働組合との関係悪化など、社会情勢の不安定化に伴って資金難に陥り、結果、株式の売却を余儀なくされ、創業者フェルッチョ・ランボルギーニは経営から身を引くととなりました。

その後も高性能モデルの販売は続きましたが、1973年になるとアラビアとイスラエルの間で勃発した戦争から石油供給への不安が広まります。対策として、当時販売していた「URRACO(P250)」は3.0L V8(250ps)を搭載するP300と2.0L V8(182ps)を搭載するP200へ細分化。しかしながら、販売台数は減少を続け、経営陣は外部とのコラボレーションを推進。その一つがアメリカの「MTI(モビリティテクノロジーインターナショナル)」とのオフロード車の設計・生産であり、クライスラー製のV8をボディ後方に搭載する「Cheetah」が試作されました。ただ、必要となる投資や技術的な課題は大きく、このプロジェクトは中止となります。

しかし、オフロード車開発の情熱は決して消えてはいませんでした。1980年の破産後、砂糖生産で富を築いたパトリック・ミムランのもとで経営再建を最中の1982年に高性能オフロード車の計画が再び立ち上がり、7.0Lの巨大エンジンをフロントに搭載して最高速度200km/hを越す「LM001」が開発されました。ただし、本格的な市販化が行なわれたのは1986年。鋼管スペースフレームのほか、FRP製アウターパネルで構築されたボディには「カウンタック」と共通のV12気筒エンジン(450ps/51.0kgm)を搭載し、最高速度は206km/hに達したと言います。

「LM002」の生産が終了したのは1993年。若干の空白期間がありましたが、再びラインナップに加わるSUV「ウルス」も日本の道で他のモデルと同じく多くの注目を集めることでしょう。

(今 総一郎)