RE雨宮自動車の雨さんとDaiちゃんの「My ROAD東京サーキット」【Daiちゃん編】

このシティサーキットでも、当時のクルマは足が弱く、スピードは高くなくても挙動が激しく、逆ハンやドリフトを覚えていった。もちろん、首都高もオレのサーキットだった。先輩の後ろについて走り、なんとか上手くなろうと必死だったよ。

都内でひと走りして、そのまま第3京浜から横浜新道を通って、湘南まで飛ばす。そして、長者ヶ崎でUターンして戻るのが日課だった。クルマは、中古のコンテッサ・クーペ、遅いからソレックスキャブ付けてた。それでも、新しいカローラの1100に負けちゃうんだ。でも、オレは遅いクルマなりに、コーナーのスピードを上げていくのが楽しくてしょうがなかったよ。サスは車高短、マフラーも抜いていたから、いつも交番のおまわりさんや白バイに止められたけど、なんとか許してももらえる時代だった。

レースに出たかった。でも、戦闘力のあるクルマが作れない。ジムカーナくらいで精一杯。ストリートで練習して、ジムカーナで腕を試す、というわけだ。もちろん、今でもいいコーナーが目の前に迫ると、攻めたくなる。コレ、本能だね。でも、最近のクルマは性能がいいから、スピードが高く怖いね。首都高や東名も路面が悪く、クルマが多い。それでも、飛ばせるチャンスがあれば飛ばすよ。人に迷惑かけないのならいいと思っているから。

走り、スピード。これだけは、どんなに歳をとっても止められない。クルマがただ移動の道具だけだったら、オレはクルマを手放すよ。

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雨さんとDaiちゃん、いまやふたりとも70歳オーバーですが、「走り屋魂」は変わっていませんね。尊敬いたします! これからもチューニング界のトップを全開で走り抜けてください。

[OPTION 1983年6月号より]

(Play Back The OPTION by 永光やすの)

 

この記事の著者

永光やすの 近影

永光やすの

「ジェミニZZ/Rに乗る女」としてOPTION誌取材を受けたのをきっかけに、1987年より10年ほど編集部に在籍、Dai稲田の世話役となる。1992年式BNR32 GT-Rを購入後、「OPT女帝やすのGT-R日記」と題しステップアップ~ゴマメも含めレポート。
Rのローン終了後、フリーライターに転向。AMKREAD DRAGオフィシャルレポートや、頭文字D・湾岸MidNight・ナニワトモアレ等、講談社系車漫画のガイドブックを執筆。clicccarでは1981年から続くOPTION誌バックナンバーを紹介する「PlayBack the OPTION」、清水和夫・大井貴之・井出有治さんのアシスト等を担当。
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