かつて初代サニー、現在はリーフを生産する日産追浜工場の不思議!?

〈MONDAY TALK星島浩/自伝的・爺ぃの独り言18〉 追浜—-で思い出すのは小学4年生。海軍航空機のサービスエンジニアだった母方の叔父が結婚して住んでいた時分だから70年以上前。夏休みに招かれた。タクシー会社で育ったものの軍用機については知識ゼロ。根ほり葉ほり訊くので叔父が手を焼いたそうな。

 ヘェーッそんな大きいエンジンが、オートバイや3輪トラックみたいな空冷、と聞いて興味しんしん—-そうかァ空を飛ぶんだもの大排気量でも気筒を星形に配したら空冷でいいんだと納得。でも高く飛んで空気が薄くなっても大丈夫なの? と質したら、だから高度には限界があるのだ、と。むろんジェット機なんか知るよしもない。

 

 追浜訪問の2度目は1966年。日産がティーザーキャンペーンを経て鳴り物入りで初代サニーを発売。まだトヨタが初代カローラを売り出す前だから夏。ブルーバードが横浜で、サニーは新しい追浜工場で生産を始めた。

                   

  

 平凡パンチ誌カーデスク時代、同じ銀座にあった日産広報部から見学に誘われる。私は発売直後に初代サニーを購入していたので、自分のクルマがどのように組み立てられるのか、ぜひ確かめたかった。

 

 オートメーションではない。ほとんどが手仕事で溶接ロボットもなし。梯子フレームにサスペンションを組み付け、エンジン・トランスミッションを載せ、ボディ、インテリア、装備を架装していく。

 今は組立ライン1本に4車種、5車種を混流させ、2交代制の16時間で1台が完成するのに対し、当時は何日かかったのかしら。それでも大量生産の凄さに一種感動を覚え、意義ある見学だった。

 

 ただ一つだけ気になったことがある。組立ラインではない。おそらく当時はメッキも組立工場近くで行われていたんだろう。バンパーと思しき素材が建て屋の外に積み上げられている。何日も雨ざらしにされるはずはないにせよ、これでいいのかな? と。

 

        

日産自動車 追浜工場 (MotorFan誌1962/5月号より。同工場の本格稼働が報じられた。)

 

 杞憂ではなかった。購入して1年足らず、わが初代サニーのバンパーにフツフツと小さな錆が浮かび上がり、しだいに広がって「これではサニーじゃなくサビーだョ」と、情けなくなる。

 住まいに近い墨田区立川のパーツ店でバンパーを発注。ただし純正部品はダメだョと念押しした。値段が安いだけじゃない、イミテーションパーツのほうが品質も高いに違いないと思った。

閑話休題。

 その後、モーターファンの別冊取材で追浜を訪れ、短いテストコースで走ったり撮影した記憶もあるので、去る2月下旬の追浜工場訪問が何回目なのか。多くが砂利道だった1966年と異なり、首都高速で金沢八景まで都心から1時間足らずの道のりだ。が、工場近くは、ひっきりなしに部品輸送のトラックが走るので、一部渋滞した。

 曰く同期生産。ジャストインタイムはトヨタのカンバン方式とも大同小異で、受注すると即、車種、グレード、ホディカラー、内装、装備品、納入先などがコンピューター入力され、刻限に会わせて部品&用品が組立ライン脇に届く。見学コースにロボット溶接や塗装工程はなかったものの、工員たちがし忙しく立ち働いていた。      

 初めて見たのはキューブなどに混じって流れてくるリーフ。大きなバッテリーを抱え上げる自動化工程と、他車種を含め完成車を100㎞/hで走らせる台上試験。それが終わるとラインオフ。内外仕向地ごとに本牧埠頭に集められる。1台16時間の月産2万台である。

 たた今回も首を傾げる。少なくとも見学コースで女性工員を1人も見なかったからだ。確かに腕力を要する作業がある。が、人と社会に優しいクルマは、より優しく造る必要もあろう。女子従業員寮などの不足かしら。理由は知らないが、ここ10年来、日産追浜組立ラインほど女性工員を見かけなかった工場を知らない。発表会で見た紹介映像でアクアやカローラの組立工場には女性も大いに活躍してたのに。★