60年以上も前に走っていた電気バスのバッテリー事情はこうだった!

〈MondayTalk星島浩/自伝的爺ぃの独り言35〉 電気バスは東京にもあったんだョ 

 知人が「やっぱ将来は電気自動車かねェ」と問いかけてきたので「石油枯渇、その前段階でも原油価格が高騰して事実上使えなくなると、電気に頼らざる得ない。またその電気を、どうやって造ったり貯めるのか、によっては、燃料電池に向かうだろうョ」と応えた。

 

 電気自動車だって移動手段。貯めた電気で走るか、電気を造りながら走るわけで、今はメーカーもインフラも一斉にそちらに進みつつあるし、自動車に蓄えた電気を家庭生活に使う技術も実用段階に入ってきた。

 

 ただ、純EVとなるとバッテリー価格が高いので、一般ユーザーが買い替え候補に選ぶには、まだ数年かかろう。コンパクトサイズで350万円前後もする。加えて現状、充電インフラを想うと、決心が鈍る。

 

 まだ長距離が苦手で、東京発、箱根ドライブだと、海老名・箱根・海老名で都合3回充電、約30分ずつかかるので、旅行好きにEVが普及するのは、もっと先だ。それでも予想以上に売れていて、週一度はレンタカーかタクシーを見るし、充電インフラも急ピッチで進行中ではある。

 

 一方、三菱の開発速度にも注目。i-MiEV技術を次々商用車系やSUVにも展開。乗用車でリーフに敵わなくても、市街地の小口運送なら遠からず三菱がシェアを拡げそう。どだいEVは鉛バッテリー時代から小口運送に使われ、ロンドンで牛乳配達用を見た記憶がある。

              

  三菱のミニキャブMiEV。EVがどんどん生活に近づいてきた。

 

 

 記憶を言うなら電気バスも同じく。

 私が東京に出てきた1950年にはプリンス自動車の前身=「たま」がEVタクシーを走らせ、純EVとは言えないが、浅草から 谷中を通って不忍池までのルートをトロリーバスが定期運行していた。

 

 東京には純EVバスもあった。1944年だから終戦直前。6ボルト鉛バッテリー100個を床下に収めた電気バスが、浜松町・上野間を走っていたと、都交通局に記録が残っている。実物は見ていない。

 

 公共交通機関ではないが、排ガスを嫌う工場内では部品搬送に古くからEVが活躍、人員輸送用もあった。例えば呉海軍工廠—-JR呉駅の東南側に鎮守府? そこから南に向けて海岸沿いに多くの軍艦を生んだ工廠と軍港があった。建造のほか、艤装、点検・保守も行われ、平坦で長い構内通路数㎞で専用EVバスを走らせていたのだと。

 

 敗戦で海軍工廠解体。要らなくなったEVバスに呉市交通局が目を付けた。明治時代から海軍の町として栄え、1909年の市電開通も早いが、1930年にはバスが定期運行を始めたと聞く。ただし戦後は経済的に疲弊。燃料入手に困り、市営バスの一部をEVに代えた。近距離なら、ほぼそのまま使える。電池交換・充電システムも受け継いだ。

 

 私は中学1年が終わった1945年3月16日の大空襲で神戸を焼け出され、被災を免れた神戸駅前の大叔母宅に暫く身を寄せた後、中2の夏に亡父の実家があった呉市に移住。ほどなく敗戦を迎えた。

 

 家は旧市街の東側、通学した呉一中=後の三津田高校は西側に位置し、むろん徒歩通学だったが、中学4年か5年だったから少なくとも1948年にはEVバス定期運行が始まっていた。巧くタイミングが合えば家に近い本通り13丁目で乗り、三津田近くで降りたもの。

 

 バスはフルフロント型。運転手はいたが、助手や料金支払い方法は記憶なし。最後部に鉛バッテリー数10個を積み、モーターで後輪駆動するのと、バッテリー交換の早業をよく憶えている。

                          

 バスは本通り13丁目と隣町・吉浦間を往復。中間が呉駅ターミナル。バッテリー個数を勘定しなかったのは迂闊だが、バスが呉駅に着くと、係員が台車ごとバッテリーを充電所に運び込む一方、充電済みパックと入れ替える。客が乗降する間だから僅か数分で発車した。駅構内に変電設備を設け、傍にバッテリーを充電する建屋があった。

 

 本通り13丁目で折り返したのは、その先が上り坂だったのと、市電と通常バスが運行していたからだ。EVバスは、鉛電池価格が高騰したのと燃料入手が楽になった時点で廃止—-記憶を確かめるべく、数年前、呉市交通局に問い合わせたら、おおかた辻褄は合っていたのに、資料が残っていなかった。60年も前だと利用経験者も少ないと聞く。

 

 モータリゼーション進展に伴い市電が消えたのは驚かないが、一時は250台も走らせていた呉市営バスが、営業不振と財政難で近く廃止されると、同窓会誌が伝えてきた。バスを頼りに病院へ通うお年寄りはどうするのかしら。他人事ではない。私も満81歳を迎えた。★