日本のテストコースと言えばあのヤタベ=JARI(日本自動車研究所)だった!

〈MONDAY TALK星島浩/自伝的・爺ぃの独り言28〉 モーターファン・ロードテストは1970年に都下村山の機械試験所から茨城県谷田部町のJARI(ジャリと発音)に移されたが、谷田部とかJARIといっても関係者以外に通じないと聞いたので補足しておく。

1969年まで毎月使った機械試験所は通産省(当時)管轄下で、小規模なオーバルコースのほか、各種計測設備があった。借りたのは三栄書房ではなく、自動車技術会主催の名目だったと記憶する。

他方1960年代に入って、2輪、4輪を問わず自動車メーカー各社が挙って自前の本格テストコース建設を始めていた。

1962年9月にホンダが鈴鹿サーキットを開場、同年11月にバイクの全日本ロードレース選手権レースを行うと決まったところで各社が建設を急ぎ、スズキが竜王、ヤマハが袋井に大小コーナーや若干のアップダウンを含むレーシングコース並みの走行試験場を造る。

すでにビッグスリーは世界各国でGPシリーズにフル参戦、いずれも好成績を収め、市販車の市場も大きく広がりつつあった。

                                     

時期を同じくして4輪メーカーも広いスキッドパッドや高速周回路、ハンドリングコースを次々建設した。が、目的は走行性能に限らない。排ガステストや燃費性能は自社のシャシーダイナモ室で事足りるが、空力性能を追求する実車風洞実験場となると莫大な巨費がかかる。

そこで自動車メーカーが共に同条件で使える試験設備やテストコースがあるべきだと、1961年に(社)自動車高速試験場を設立した。

当初は走行コースのみ。1周5.5kmのオーバルコースは64年に完成して運用を始めたが、排ガス試験室や実車風洞実験場をも包含するテスト&研究組織に改めたのが69年。略称JARI=(財)日本自動車研究所が発足した。自動車技術会主催名目のモーターファン・ロードテストが1970年に会場を移した時機とも符合する。

本拠が茨城県谷田部町にあったので、JARIとか谷田部で通用するが、今はつくば市。東京は秋葉原から浅草経由、つくばエクスプレスで1時間弱かしら。科学万博に合わせて常磐道が部分開通するまでは、交通混雑で知られる国道6号線で都心から2時間半を要した。開通後は高輪の仕事場から1時間でテスト現場に到着できたっけ。


ヤタベこと、筑波にあったJARI高速周回路でのワンシーン(写真は80年代)。

ところが、つくばエクスプレスを開業して学園都市を再開発し、駅や操車設備を整えるのに適当な土地がなく、JARIの走行コースエリアを潰さざるを得ないとなって、同じ茨城県内に新たな土地を探した結果、常磐道水戸インターから15分ほど、水戸市と笠間市に挟まれた城里町(以前は常北町。七会村と桂村が隣接)の高台に、スキッドパッド、総合試験路、オーバルコースと外周路が移設された。

拡張案もあったようだが、同規模であることが立ち退き条件だったと聞く。液化水素バッグ耐圧試験室など一部研究施設を含めたオープンが2007年。今はJARI城里(しろさと)センターと呼ぶ。

なにを隠そう、わが隠居小屋は城里センター正門から坂を下りて突き当たった集落にあり、クルマで5分足らずの隣組にある。

むろん私はオープン以来、見学や新型車事前試乗などで毎年のように走っていたが、最近2年はチャンスなし。毎月行われたロードテストが終わり、モーターファン本誌が廃刊された後は谷田部でさえ訪れる機会がほとんどなくなっていたし、城里センターで同種イベントが行われている話も聞かない。このぶんだと、JARIとか谷田部と親しんだ呼称が「シロサト」で通用する日は近くなさそうだ。

実を言うとわが隠居小屋は、もてぎツインリンクにも遠くない。車で20分の距離にある。城里センターやツインリンクにイベントがあり、隠居小屋を訪れたり泊まっていった仲間からは「先見の明」を褒められるが、20年ほど前に小屋を建てると決めた時点は、ゴルフ遊びに便利で見晴らしがよく、真に隠居目的で土地を買い、小屋を建てたもの。

城里センターが隣組になるのはもちろん、栃木県茂木町が近いとか、ツインリンク建設計画なんか、つゆ知らなかった。

実は、ジャーナリスト稼業引退ばかりではない。80歳を超えた昨今はゴルフ遊びの回数も減ってきた。春は梅に始まって、桜やさつき、あやめが続く時季は喜んで訪れるのだが、ゴルフ遊びもままならない寒い冬は億劫になってきた。こんなことなら、空き地部分を畑にしておけば別の楽しみもあったろうに、と、今ごろ少し後悔している。★