下町暴走族と呼ばれて、サーキットでのレースへと進んでいった頃があった

〈MondayTalk星島浩/自伝的・爺ぃの独り言29〉 転地療養と新薬=ストマイが効いて肺結核がほとんど治り、アルバイトから三栄書房正社員に昇格したのが1954年。茅場町にあった編集部が四谷に移転。モーターファン誌が発行部数1万を超えて臨時ボーナスが出たっけ。ややあって、私は江東区大島に引っ越す。

ポンコツ街で知られる墨田区立川まで車で5分足らず。首都高・錦糸町入口近くにオートレース用エンジンチューニングを主業とする深川内燃機が通勤途中にあり、ほどなく坪井社長と親しくなった。

補修や改造に必要な部品・用品購入や、エンジン、クラッチ、トランスミッションから足回りに至る—-分解・組立や、見よう見まねで工作機械を使わせてもらえる工場・作業場が軒を連ねていた。今はタイヤリキャップ店を含め、ほとんどが廃業。ポンコツ街に昔の面影はない。

 1960年。タクシー上がりのクラウン1500ccエンジンを買ってきてバラし、丸棒を削ってカム軸を造り、バルブタイミング変更を目指したのに、ディストリビューター駆動ギヤが削り出せず、専門工場にお願いした思い出もある。出来上がったものの、僅かに高まったパワーはともかく、ガソリン大食いで実用に堪える代物ではなかった。

もう一つの楽しみは木場の若い衆たちとの交流だ。これも今はおおかた浦安に近い新木場に移転。やや離れた錦糸町寄りの銘木店を除き、跡地は大部分が公園に再開発され、周りにホテルビルや大型店舗が林立。木遣りや角乗りも記念行事として公園で行われるだけだ。

1950〜60年代は活気に満ち溢れていた。

なにせ戦後の復興ブームである。東南アジア諸国で買い付けた木材が、木場に届くまでの間に30〜40%も値上がりしたというから笑いが止まらない。ために後継者? と目された倅(せがれ)たちはバイクにしろ4輪乗用車にしろ、欲しいまま購入できた。私の知る限り、スカGやホンダS600を乗り回していた多くが木場の若い衆だ。

加えて立地条件が幸い—-東雲(しののめ)、有明から台場にかけて大規模埋め立て工事が始まっていた。初めはゴミ処分場に向けて橋をかけただけの荒れ地で、モトクロス遊びに事欠かない程度だったが、やがて副都心用に幅広い舗装道路が縦横に幾つも建設される。

おまけに埋め立て地がどこの管轄下になるか決まっていなかった。

多くは江東区だろうと言われていたものの、橋を渡った先の埋め立て区域はとりあえず水上署(当時)が警備などを担当した。

橋とゴミで思い出す。多くが区内にゴミ焼却場を造ったのに、杉並区議会が建設計画案を否決したと知るや、若い衆たちが決起。杉並区のゴミ収集トラックを橋の手前で追い返す実力行使に出た。連日の通行トラックに迷惑していた江東区民が拍手喝采。江東区や警察も見て見ぬふりで、新聞やTVニュースが大きく採り上げた。

杉並区内がコミだらけになって困ったんだろう。ほどなく建設を議決して、都内有数の処分施設を造ったのはさすが金持ち区—-。

埋め立て地に幅広い舗装路だけ造られて暫くが、若い衆たちには絶好の遊び場だった。毎週のように走行ミーティングを開き、2台ずつでゼロヨン勝ち抜き戦を行う。手製のクリスマスツリー? を合図にスタートさせた。むろん違法行為である。が、水上署には警備艇が多くても、パトカーは少ない。橋際にトーキーを持つ見張りを据えた。

業を煮やした当局が巨大なテトラポッド(波消しブロック)で道路を塞ぐまで遊びが続く。それでも当時マスコミが叩いた「周辺住民が迷惑を蒙る類の暴走行為とは違う」と密かに胸を張っていたもの。

仲間が増え、北は両国、浅草、千住。東は市川、浦安、船橋から千葉、木更津あたりまでの走り屋が糾合してGSS=グループofスピードスポーツを結成。1964年、JAF加盟クラブに登録申請した。

1965年夏に船橋で行われた全日本クラブ選手権レースは仲間の出場を支援したり、競技役員を派遣しただけだが、秋以降はクラブ主催の小イベントを実施したり、名古屋や大阪のクラブと共同して鈴鹿サーキットでのレースを企画・実行していく。★