“ケニー・ロバーツはライディングアーティスト” 「RACERS モトGP公開取材2」

※こちらは、モトGP公開取材1をご覧になってからの方がより楽しめます。
公開取材と云う名のトークショーを引き続きお届けします。段々イキオイがついて来ました。

カ:RACERSのカトー編。いつもにこやか、腰の低い男。時々、暴言!?w
北:ヤマハ発動機で一番長くレースに携わっておられる 北川 成人さん
黒:元HRCグランプリチーム監督 黒澤 達夫さん。
以上の3名でツインリンクもてぎのファンファンラボ特設会場でGP500(cc)当時の伝説とその裏話が展開しました。

 

これが話題のNV0A

カ:福井さん(前ホンダ社長)が投入した’84NSR(新型V4エンジンとタンクの位置が逆転している)が出てきた時どう思いました?
黒:いや、上が決めたものだから・・・会場爆笑(フレディーは)火傷するし、整備は大変でした。
北:そこにキャブ仙人が登場するんですか?
黒:そうそうそうそうそう・・・w チャンバーの位置を高くした事でキャブ周辺の温度が上がり、燃調をとるのが大変。出たとこ勝負みたいな感じもあった。
カ:ヤマハのエンジニアから見たNSRってどんな感じでした?
北:…第一印象で驚いたのはNSRよりフレディ―スペンサーの肩幅が前の年より2倍っ位になっていて驚きましたw オフシーズンに、無茶苦茶ウェイトトレーニングをしたらしく、ハンドリングをパワーでねじ伏せてやろうと思って逆三角形の一回りでかい体になってました。
カ:ファン心理としては形カッコウいいと思うんで、ホメて下さいよ。(もはやお願い)
黒:“音”は最高でしたね、4気筒の音は。
カ:おっ、音だけですか?
黒:ストレートも速かった。
カ:当時のホンダは(90度)同爆ですよね。その音が共鳴しているっていうか…
北:楽器の胴(共鳴箱)があのあたりの(中心)部分に有るのは(いい音を奏でるのに)意味があるんと思うんですよね。(あの辺に空洞があるのは)音響学的にいい音が出ると思うんですよ。・・・知らんけどw

カ・黒:流石、ヤマハだからw
北:フレディに驚きましたけど、マシンそのものにも驚いた。未だ低重心の進化の途上にあって試行錯誤はしていてもあそこまでは普通考えないw

 

ココが話題の職人仕上げのタンク!

しかも考えたことを具現化してしまった。「設計したものを具体化する」腕の立ついい職人さんをかかえていらっしゃるなぁと。
黒:写真で見て頂けたか判りませんが、タンクの中の仕切り板が沢山あり、燃料を動かない様にしているそれがハンドリングに効く。そういう腕の立つ板金職人さんは社内にいらっしゃいました。
北:そういえば、それ以前にNS500のとぐろを巻いたチャンバーにも驚いた。普通あれはしないだろうってw
カ・北:(二人で指をグルグルw)
カ:排気管長なんてどうやって整えたんだかw
北:あれぞ職人技そのもの
黒:だけど、まっすぐじゃないと…なんて固定概念があったんですが、その頃にモトクロスでは既にそういうチャンバーも有った訳で。 それの延長線上の発想ですよ。
さらっと、かっこいい~流石ホンダDNA継承者である。
カ:’83はフレディ(NS500)が(チャンピオンを)獲って、翌’84はエディ(OW76)で獲り、以降’90年のレイニー迄ホンダ・ヤマハ・ホンダ…と順番にタイトルを獲りあうんですが、あれ何で連覇できなかったんでしょう?
北:(首をひねりながら)…
黒:同じだと思うんですが、目標を決めて技術的進化を進めていくんですけど、結果的にああなった。 だから、交互に獲ろうなんて思っていないw
北:…あのぉ、マシンのポテンシャルとライダーの技量を見た時に、(ヤマハとホンダは)かなり拮抗していたと思う。チョットした要因が加わる事によって交互に勝ってしまうと云う事が起きた。
黒:怪我だったり、来なかったりとかイロイロ・・・w
北:勝った方に「この位でいいだろう的な」気のゆるみが絶対無かったとは言えないだろうし、負けた方はチクショウと思って110%位(力や集中力が)出るだろうし。
カ:80年代、お互いの情報合戦はあったんですか?
北:当時は秘密主義で、今ほどオープンでは無かった。プラクティス終わったらシャッター閉めちゃうぞ みたいな。外からちらっと見ても何をやっているかは判らなかった。
黒:隠してましたね。車検場に行って、何をしてんだろうかとイメージを膨らましてました。(一般的に車検は公開です。)
カ:パドックで噂話は流れてくるのでしょう?
黒:メカニックを使って、聞きに行かせたりはしてましたね。
北:メカニック同士は結構ツーツーだってりするんで、ある日突然ポロっと出てきたりする訳ですよ。
黒:ヤマハワークスは)ガード固かったですからねぇw
カ:北川さんは今こんな好々爺みたいな顔されてますけど、現場では“取材してくれるなオーラを出しまくってましたからねぇ
北:(私)じいさん(扱い)ですかw
黒:僕なんかねぇ冗談で「共〇圏のチーム」って感じと(会場爆笑)
北:黒澤さんにそこまで云われるとはw
カ:ヤマハファクトリーはとにかく「車入ってくるとシャッター閉める」って云う感じで(情報管理が)厳しかったですよ。
北:中で火噴いたりしてるんでw シャッター閉めないと(会場爆笑) …たまたま撮られて掲載されちゃった奴有りましたね。

カ:80年代のHONDA NSRを見た時にライバルから見た素晴らしい所は?
北:正直言わせて頂けると…
黒:無いでしょ?w
北:いや、ちゃぅちゃぅちゃぅちゃぅ 80年にNR、4サイクルでGPに再参戦されたのをポンと方針転換されて、2サイクルに変更された。当時2サイクルにはヤマハは一日の長があり、ずっと上をいかなきゃいけないのに、すぐに追いつかれた。 2でも4でもホンダの技術的なバックボーンの蓄積が凄いんだなぁとつくづく思わされました。…いいですか?この位でw
カ:ホンダは2ストロークはヤマハの車には勝てない(当時)のを何とかしようって会社的なライバル心がありましたか?
黒:最初に本田宗一郎がグランプリに「欧米に追い付け、追い越せ」で参戦を開始して、勝って。環境問題への対応の為にしばらく参戦を休止して10数年ぶりに復帰した訳ですが、その頃「技術は絶対だ!」と云う空気が社内にあって最初の参戦以上には勝たなきゃというプレッシャーで、「何で負けるんだ?」と云う感じですね。
カ:当時は本田宗一郎さんがご存命で、ライバルヤマハに負ける時は怒られたりするんですか?
黒:と、いうか「技術的に何とかできないのか?」と云うのが悔しいみたいですね。(当時社長を辞されて10年以上経過している頃です。流石に怒鳴らないまでも、楽しくないぞオーラを出されてはいたようですねぇ。)
カ:では、そうなるとヤマハにここは勝とうよ、たとえばストレートだけは絶対に勝とうよ‐みたいな。 黒:それは…昔からエンジンの会社だって云われている会社ですから、絶対パワーは技術力だという思想がありました。だから、直線で負けるっていうのは許せないっていうのは有りましたね。
カ:やっぱり、ホンダの場合はエンジンありき、エンジンパワーで圧倒するという考えがあるんですか。
黒:最近はわかりませんが、80年代は有りましたね。「1馬力でも」っていいながら(開発を)やっていましたから。
カ:エディー・ローソンがYZRに乗っていた頃に「ガードナーのNSRにとにかく(直線で)離されていく」って云ってました。
北:(無言 面白くなさそう
カ:「ホンダみたいなエンジンパワーが欲しいー」って当時言ってましたよ。
北:(身を乗り出しつつ)そんな事言ってました?
カ:エへへへ(空気を察し、苦笑い)…当時は云ってなかったですか?
北:当時言ってたと思いますが、知らんふりしてました
カ:逆に黒澤さんから見て、YZR500がすごいなぁと思うところは?
黒:コーナリングが凄い。NSRはアンダーアンダー(アンダーステア)とライダーから言われ続けました。ホンダがアウト・イン・アウトのセオリー通りのラインで走っていると、ヤマハはイン・イン・イン同じコーナリングスピードで駆け抜けちゃう-そんな感じですよね。
カ:ハンドリング-コーナリングはヤマハが上?
黒:だと思っていました。
北:まぁ、他人の庭の芝生は青く見えるって云うじゃないですかw
カ:でも、我々も一般的に「ハンドリングのヤマハ」ってフレーズは良く聞きますし、レーシングマシンのコーナリング性能をライバルの黒澤さんが認めてらっしゃる。80年代からハンドリング・コーナリング性能にかけては、エンジンパワーでは負けてしまうけど…
北:そこ…忘れちゃぁいけないのが、(うちは)会社名に“発動機”って入ってるんで、うちはエンジンが主の会社ですからw ちょっとそこ名前負けしてますかねぇ?
カ・黒:(苦笑い)
カ:ハンドリングについては具体的な開発目標はあったのでしょうか。
北:レーサーだけでなく、市販車も最終的には人間が乗って感覚的に“これで良し”と思う所まで突き詰める。レーサーも同じです。感性を非常に大切にする。ライダーが思った通りに動かないとレースなんて出来ないでしょうって話なんで。
幸か不幸か、歴代のファクトリーライダーの皆さんは“ライディング・アーティスト”なんですね。「コーナを深々とリーンさせて素早く抜ける」そういう所に美学を求める人達が多かった様に思います。そういった人達に要求を叩き込まれて磨かれていったのかなという気がします。  あえてエンジン遅いのでこっちで勝負しようと思った訳ではないです。
カ:特にライディング美学は強かったのは誰でした?
北:やっぱり御大、ケニー・ロバーツですねぇ。

 

アーティストの軌跡です

カ:あぁ、ケニーは美しいですもんねぇ。
北:ライディングフォームがもの凄く格好良いですねぇ。あとは、その流れを組むエディーローソン。彼もその部分については気位の高い自分のスタイルを貫く人でした。だから、黒澤さん苦労されたと思うんですよw(と黒澤氏にフる)
カ:そうですよ、黒澤さん!’89年にそのエディー・ローソンがそちらに行くじゃないですかw
黒:そうですね。比較はしないんだろうけど、こちらもヤマハはどうだこうだと云うのは聞かない。
カ:聞かないんですか!それは紳士協定とか?
黒:紳士協定とかではなく、技術者の意地。…ハンドリングがどうだとか、そういう言葉には置き換えて何となく探るんですねw
北:うちは聞くけどねぇ
黒:その辺で、ハンドリングに関してはだいぶん云われて、あの当時はどの位だろ?かなりの本数のフレームを作りましたねぇ。
カ:取材では図面だけでも15本以上だとか。
北:両手で足りないすっか?
黒:確か実際に作ったのが、5,6本有るんじゃないですかね。
カ:しかも’89年当時、8耐にグランプリライダーがこぞって参戦していた頃に、エディーは一人ヨーロッパに残ってテストしていたという…
黒:アーヴ(・カネモト 当時、エディー・ローソンのエンジニアを担当)さんが好きなんですよ。そんなのw
カ:エディーはそこまで徹底的にやって、ハンドリング性能を上げるべしって事を言いたかったんですかね。
黒:トータルバランスなんですけどフレームだけ作ったって、エンジンの出力特性がダメではいけない…簡単に云えばハンドリングを何とかしてくれってことだったんですね。
カ: 一部の人にはエディーはホンダに来て、ヤマハのバイクを作ろうとしているという拒否反応があったと聞きました。
黒:確かにチャンピオンを獲った人を連れてきてけど、ワークスにはガードナーがエースとして居る。しかし、やっていくうちにある時からワークスの開発の主力が移っていくんですよね。

 

写真は1987ガードナー車

カ:この年、ガードナーがアメリカGPで転んでしまって・・・
黒:そういう事があったりして、エディーは技術陣にも無い物を求めてくる。それが、技術陣にとってもチャレンジであって、 その結果としてああなった(エディーがタイトルを獲得)。
カ:と云う事はあの年当初はワインガードナーがNSR500の主人公?
黒:極端な事を言えば、ワインの車と云うのは「エンジンが○○より前にある」(重心位置が一般的なマシンより前で下にある)と  エディーには全く乗れない。
カ:でも、良くシーズン途中から主人公をエディーに変更してよくチャンピオン獲れましたねぇ。そこに持っていくHRCは凄い。
北:そうそう。苦労されているのは横目で見ていて判りましたが、凄いパワーを注入されているのが判りましたよ。
カ:でも、89年のタイトルを獲ったのに90年エディーはヤマハに戻ってしまう。あれは何で?
黒:いやぁ、判りませんねぇw
北:多分、彼は連続でタイトルを獲った時「ヤマハは1年おきにしか頑張らない…じゃあ来年はヤマハかなっと思ったんじゃないでしょうかw

カ:そんなに計算高いですかw 90年なるとエディーのヤマハに帰って、ウェイン・レイニーも登場してそこから3連覇。あの頃のヤマハは鉄壁の布陣ですよね。いきなり3連覇できたのは何ででしょう。
北:丁度あの3年にウェイン・レイニーがライダーとしての絶頂期を迎えたと云う事と最大のライバルはエディー・ローソンだと思ったんですが、90年シーズン早々にエディーは怪我をしてしまい、戦列を離脱してしまう。あれが、シーズンを通じてジョイントNo.1で戦っていたら星の潰しあいをしていたのかもしれない。早々と居なくなったので、ウェインは楽になった。

 

Rainy3連覇!

そこで弾みがついて、翌年そのまま勢いに乗ってしまった。   そこでエディーを早々と葬ったのは何を隠そう私なんで…
カ:えぇっ!ど、ど、どういう?
北:あの頃私8耐で8時間走っても1mmも減らないブレーキパッドの開発をしてまして(爆笑)とんでもなく強烈に効くブレーキがあった。エディーがそれを聞きつけて、大したチカラ入れないでとてつもなく効くブレーキを欲しがった。(注:エディー・ローソン選手は中指一本でブレーキングをします)そのブレーキパッドを使って、最初は調子良く走ってたんですが、ブレーキングがハード過ぎてブレーキパッドが反ってしまった。そんな訳でセッション中にブレーキパッドをとっかえひっかえ走っていたら、あまりの頻繁さにメカニックがパッドのピンを付け忘れたのか間違えたのか、走行中にブレーキパッドが脱落!コースアウトして足を折っちゃったんですよ。
カ:じゃぁ、走行中にフロントのどちらかのパッドが脱落して…はぁ~。
北:だから、その年のウェインのチャンピオンに貢献したのは私です
カ:(天を仰ぐw)

北:
この話、オマケがついてて、(エディーが)その年前半棒に振って、そろそろGPに復帰するって話になった時「今年はタイトルはいいよね、8耐でも出てみる?結構賞金もいいし…」なんて話をしましたら二つ返事で来る事になりました。で、平とエディーで90年THCH218耐優勝!結構、私バックグラウンドで(いろんな伝説に)貢献してるかなと思ってるんですけどね

カ:90年のTECH21のYZFの開発責任者は北川さん?
北:いや、代替わりしていました。その頃はコンポーネントの方に戻っていてタイヤのクイックチェンジシステムだとか開発していました。
カ:じゃぁ、90年の平さんと組まれた8耐の優勝って、シーズン当初からエディーを引っ張ってくるって計画されていた訳ではない?
北:ないです。(キッパリ首を横に振る)たまたまエディーが怪我をして、リハビリに丁度イイだろうと。
カ:でも、劇的に優勝できて良かったですよね。
北:だから、そういう運命にあるんでしょうね、私を含めてそういう流れが。災い転じて福と成すみたいな…(チョットドヤ顔w)
カ:ヤマハがレイニーと3連覇している間、ホンダは何をやられてたんで?
(相当ヒドイ質問に会場から失笑が漏れまくる。黒澤氏、視線を外して床を見てしまう)
黒:別にサボってた訳ではなくて、勝とうと思って一生懸命やってたんですよ。今思えばライダー交代の過渡期だったんでしょうね。ガードナーがキャリア終盤に向かい、ドゥーハンが伸びてこれからっていう時期だったんで。
北:成績を見るとウェインはダントツですね。DNF(=リタイア)がほとんどない。
黒:ホンダのライダーは成績に波があったんですよ。いい時はいいけど。
カ:過渡期と云えばエンジンも(不等間隔)位相同爆、ビッグバンエンジンを丁度の頃開発されていたと云う事で。
黒:そうです。テストの時に今までのエンジン(180度等間隔同爆)と比較する訳ですよ。ライダーは乗ってても速く走っている感じじゃない。こんなエンジンは使えないと云うんだけど、ストップウォッチを見せて「こっちの方が速い」て云う事をさんざん言って説得して、乗ってくれるようになった。
カ:ホンダが(90度)等間爆発を止めたのが、91年頃ですよね。随分、印象的な排気サウンドになりましたよね。
北:牛ですねあれは。サーキットに牛が来たなとw
カ:北川さんには判りますよね「これは爆発間隔替えたな」
北:そりゃ判りますよ。
カ:位相の具合が何度なのかというのは?
北:そりゃ判りません。
黒:いろんなコーナーに音響機器を使っていろんな測定をしていたw(北川さんを指しながら)
カ:やってるじゃないですか、スパイ活動w
北:いいやぁ、やってます。今もやってますけどコンピュータを駆使して、排気音を測るだけで爆発間隔だとか、出力だとかそんなモンまで…
カ:判るんですか!
北:はい
カ:それはことしのRC212Vもやっていると。
北:当然ですね。
黒:知りませんでしたw

 

RACERS Vol.12に出てくるRG500 XR14ももてぎには展示されてます。

話はモトGPの際のヤマハGP参戦50周年セレモニーとそれにまつわるハプニングに移っていきます。

(川崎BASE)