【哀悼】スカイラインの産みの親、櫻井眞一郎さんはどのようなかただったかを星島浩さんにおたずねしました。

櫻井眞一郎さんが1月17日にお亡くなりになられました。享年81歳でした。


40代以上のクルマ好きなら、スカイラインを名車に育て上げたプリンス~日産のエンジニアだったことはご存知だと思います。

私自身は小学生だった1978年くらいに、日産プリンスのディーラーでいただいたスカイライン(ジャパン)のカタログか、小冊子に登場されていて、「へー、クルマってのは強い情熱を持った人が創るものなんだ」と子供ながらに感じたものです。

そこで改めて櫻井さんとはどのようなかただったか? 気になったので、当時をご存知であろう星島浩さんにおたずねしました。

すると、星島さんは「5年前(2005年)に日本自動車殿堂に櫻井さんについて寄稿したのでそれを使ってください」とのことでしたので、全文掲載させていただきます。櫻井さんは2005年に自動車社会に貢献したとして殿堂入りしてたんです。5年前の文章なので、年数などは5年遡って読んでください。

名車スカイラインを32年間に亘り設計開発-櫻井眞一郎氏-

現在、櫻井眞一郎氏の肩書きは株式会社S&Sエンジニアリング 代表取締役社長。日産自動車車両開発統括部の部長時代に設立したオーテックジャパンの初代社長を約9年務めた後、ディーゼルエンジンの排ガス対策を研究&開発すべく友人の北大教授らと立ち上げたS&Sである。
ディーゼルエンジンはPMとNOxの排ガス浄化両立が難題とされてきた。PMは完全燃焼で抑えられるが、NOxは完全燃焼すればするほど排出量が増える背反関係にある。S&Sは燃料に水を約20%加える、ただし界面活性剤により1ミクロン以下の水の粒子を一種乳化させ、燃料を完全に燃やす一方、燃焼温度を低く抑えて困難な課題を解決することに成功した。現在大量生産化を進めており、ほどなく世界初の技術として注目されよう─プリンス、日産、オーテックジャパンを退いた後も櫻井氏の新技術に向かう挑戦姿勢は些かも衰えていなかった。
櫻井氏がプリンス自動車に入社したのは1952年。実家に近い日産やいすゞではなくプリンスに決めたのは「たま」を継いだプリンスが独自技術で乗用車を造ろうとしていたからだ。日産はオースチン、いすゞはヒルマン、日野はルノーのノックダウンで乗用車生産をめざしたが、プリンスはトヨタと同じ独自路線を歩んでいた。造るだけならノックダウンは楽な手段に違いない。が、研究、開発から試作に至る過程で新しい技術を生み、実用化に挑戦する優れたエンジニアを育てる道には通じない。
入社してシャシー設計部に配属された櫻井氏はプリンスセダンとして開発中だった小型乗用車を担当。志賀高原の山小屋から見る稜線の美しさに感動して「スカイライン」と命名。これが1957年4月に発表・発売した初代スカイラインALSIである。
ド・ディオンアクスルが独自の技術であり、バネ下重量を軽くして、乗り心地と操安性を両立させている。プロペラシャフトとともに揺動する重いリヤデフをボディ側に組み付け、ジョイントを介したドライブシャフトで後輪を駆動した。左右をド・ディオンアクスルで繋ぎ、これも珍しい薄手の3枚リーフスプリングで懸架。フランス名ではあるが量産車に実用例はなかった。世界初のド・ディオンアクスルを成立させるべく、単なる梯子型やペリメーター型ではなくバックボーントレイ型フレームを用いた点も将来のモノコックボディ化を示唆していた。
当時、初代スカイラインが乗り心地と操安性でセドリックやクラウンと比べて高く評価されながら、それがフレームや足回りの独自設計に因るものだと広くユーザーに知られていたとは云えない。
一般ユーザーの誰にもわかる独自技術が話題を呼んだのは1963年9月に発売された2代目スカイライン=S50だ。聞き慣れないメインテナンスフリーはともかく、定期的あるいは水たまりやぬかるみを走った後に欠かせないグリースアップ保守から解放され、3万㎞保証が大きな福音になった。日本で初めてではない、世界初の革新的実用技術である。
俗称スカGは2代目に加わったS54BとS54Aに始まる。63年5月の第1回日本GPでは惨敗したが、第2回日本GPでは1.6リットルクラスでスカイライン、2リットルクラスでグロリアが圧勝。ポルシェ904と互角に戦ったプロトタイプの量産化がS54Bだ。
ブリヂストンタイヤのオーナーでもあった石橋正二郎氏が株式を売却、プリンスが日産に吸収合併された65年~66年にかけて─プリンス系の技術者は社員番号の頭に3が付く「3ナンバー族」と区別される悲哀を味わいながらも、スカイラインの名跡と独自開発はしばらく続く。68年には3代目C10を送り出し、2000GTに続いて初代GT-Rをシリーズに加えた。ほどなくRを強調した赤GTのトップ機種が盛んになった国内レースを席巻する。
半面、高いスポーツ性能はスカイラインに汗くさいイメージを定着させつつあった。当時は独立していたプリンス自販が危機感を覚えてイメージ払拭に努め、1972年9月にモデルチェンジした4代目C110が「ケンとメリー」─ケンメリのスカイラインである。日産系列店が悔しがる好評で4年11ヵ月間に63万8000台を売る大ヒット商品になった。
しかし73~74年にオイルショックが襲来、排ガス規制も始まって自動車受難時代を迎える。77年の5代目C210は2000GTに初めてターボチャージャーを備え、81年の6代目R30にも2000RS、同RSターボをリストアップしたが「GT-R」を名乗らせることはなかった。10年近い受難期を切り抜け、櫻井氏が新たな挑戦姿勢をみせたのが1985年の7代目スカイライン=R31である。
そもそも櫻井眞一郎氏は「前足で方向を定め、後ろ足で蹴って進む」FRレイアウトを信条としたが、後ろ足にも挙動を安定させる機能が要るとして、臨機応変に後輪を操舵する技術に挑んでいた。当時ようやくリヤサスペンションの動きとブッシュの働きで後輪を安定方向に保つアイデアがぼつぼつ現われていたが、櫻井氏のそれは世界初、より理論的かつ確実に後輪を操舵するHICAS。旋回中、後輪を前輪と同位相に転舵して安定性を向上させた。
やがて技術は「よく見ると前足でも少しは地面を掻いている」として4輪駆動&4輪操舵を志向するのだが、櫻井氏が直接開発指揮を執ったスカイラインは7代目まで。とはいえ32年間、1つの車種の開発と7代にもわたるモデルチェンジを続けたエンジニアは世界で櫻井眞一郎氏をおいて類をみない。
櫻井氏の挑戦はレーシングカー開発とレース活動にもある。第3回日本GPに勝ち、谷田部で世界記録に挑んだR380や第5回日本GPに優勝したR381も数えられる。
32年間スカイラインと歩み、挑戦を続けた櫻井眞一郎氏の存在感は、言葉では語り尽くせない大きさである。
(自動車ジャーナリスト 星島 浩)


スカイライン(1957年)


スカイライン スポーツクーペ(1962年)


スカイライン 1500デラックス(1963年)


スカイライン 2000GT(1965年)


スカイライン ツーリングデラックス1500(1968年)


スカイライン ハードトップ2000GT-R(1970年)


スカイライン 2000GT-R(1969年)


スカイライン ハードトップ2000GT-R(1973年)


スカイライン ハードトップ2000GT-X(1972年)


スカイライン ハードトップ2000GT-E・Sタイプ(1977年)

やはり、新しいこと、理想的な技術に挑戦を続けてきたかただったようです。私の印象通りだったんでしょう。

現在もクルマは一人で創れるわけはないけれど、方向性や味などは個性やこだわりを持ったかたに引っ張っていってもらったほうが、いいクルマができそうな気がします。今後、そのようなかたが日本の自動車業界に生まれることを望みたいです。

櫻井さんのご冥福をお祈りします。

(小林和久)

櫻井さんの生前最終的な所属はこちろ

http://www.sseng.co.jp/

この記事の著者

小林和久 近影

小林和久

子供の頃から自動車に興味を持ち、それを作る側になりたくて工学部に進み、某自動車部品メーカへの就職を決めかけていたのに広い視野で車が見られなくなりそうだと思い辞退。他業界へ就職するも、働き出すと出身学部や理系や文系など関係ないと思い、出版社である三栄書房へ。
その後、硬め柔らかめ色々な自動車雑誌を(たらい回しに?)経たおかげで、広く(浅く?)車の知識が身に付くことに。2010年12月のクリッカー「創刊」より編集長を務めた。大きい、小さい、速い、遅いなど極端な車がホントは好き。
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