ダイハツ社長が送った灯籠がモデナ最古のホテル、デ・トマソの足跡を残す宿にあるワケは?【越湖信一の「エンスーの流儀」vol.17】

■デ・トマソが愛したモデナのホテルへ

年明けから、“エンスー道”を求めてインド・イタリアを巡る旅に出ていたカーヒストリアンの越湖信一さん。3回にわたってお届けしたインド編に続き、いよいよ今回からイタリア編に突入!越湖さんが定宿にしているモデナのホテルは、あのデ・トマソと深い関係があるようで……。


●一筋縄ではいかないインド出国

デリー空港における長蛇の列
デリー空港における長蛇の列

既にヨーロッパでは、コロナ禍に関する行動の制約は皆無です。今回搭乗したデリー-ローマ便においても、何の提示も必要ありません。が、問題は違うところで起きました。

今回のローマ行きは、アリタリアからITA AIRWAYという新会社となってから初めての搭乗です。“強い推奨”に従い、3時間前にカウンターへ行ってみると……信じられないほどの、まさにへびのような長蛇の列。まあ、それは軽くいなして、ボーディングパスを発券してもらったのですが、カウンターのインディア・レディの顔がゆがむのを私は見逃しませんでした。

彼女の口から出てきたのは「あなたは搭乗できない」という驚愕のセリフ!これからが長かった。何人もの係員と気の遠くなるような交渉を重ね、最後は泣き落とし(笑)。

話の論点は、イタリアから日本へ帰る為のフライトチケット。予約だけで、まだ発券をしていなかったことが問題となりました。長期旅行者の間では、しばし話題になるこのトラブルですが、今まで、ちゃんと説明しさえすれば、私の場合は問題なかったのです。が、インドのレディは建前論を絶対に譲らない!そう、インドでは「正論」が実はとても重要なんです。(でも、実際の行動はいい加減なこときわまりなかったりする、というのも反面、事実ですが……)

へとへとになっての出国手続きですが、まさにインクレディブル・インディア! 出国審査、セキュリティチェックの列の長さもさらに輪を掛けたもので、チェックインカウンターには、安全を鑑みるなら、4時間以上前に来ている必要があるのではないでしょうか。そして、案の定フライトは2時間ほどディレイし、ラウンジも改装中で使えないという。何事もあきらめてはいけないというのがインドでの教訓でした。

ちなみにEUでは、ビザ無しの滞在可能日数に関してかなり厳密なカウントがされています。万一、入国拒否に会った時、その乗客を出発点まで送り返す義務を航空会社は負うようで、航空会社によっては帰国便の有無に関してかなり厳しいことを言うところもあるようなのです。

●デ・トマソの“拠点”だったホテル

もはや第二の我が家。PHI HOTEL CANALGRANDE
もはや第二の我が家。PHI HOTEL CANALGRANDE

さて、無事に到着したイタリア。思わず気が緩みます。ローマから乗り着いでボローニャ空港へ到着し、タクシーに乗ると、「ボナセーラ、エッコサン」と良く知ったタクシードライバーのクルマに偶然乗る。こんなこと日本でも滅多にないですねー。

モデナのホテルはいつものところ。ここには荷物一式を常時預けていますから、ロストバゲージでもさほど困らないのです。「お帰りなさい」という旧知のホテルマンが迎えてくれて、インドで起こったたくさんのトラブルも忘却の彼方へ。ああ、イタリアは天国!(と、この時は思うのです)

古典的な作りのインテリア
古典的な作りのインテリア

このPHI HOTEL CANALGRANDEはモデナでは最も古い、それなりの規模のホテルです。天井の高い古典的なスタイルのロビーには、アンティークな絵画や家具がよくマッチしています。実はこのホテル、アレッサンドロ・デ・トマソが1970年代にオーナーとなり、今も彼の息子であるサンティアゴ・デ・トマソがマネージメントを行っているのです。

そう、こういったアンティークなどはアレッサンドロの趣味。彼はサザビーズなど、オークションハウスの上得意の“骨董マニア”だったのです。かつて、デ・トマソ・ホールディングの実質的拠点はこのホテルだったから、彼はこのホテルをベースに皆を呼びつけてミーティングをおこなっていました。彼は“生涯、自分の家を持たなかった欲の無い人物である”と誤った解釈がされていたのには驚きましたが、このホテルを自分の住まいとして勝手気ままに用い、それ以外にも異なった女性の居る家を何軒も持っていた、というのが真相でしたからね。笑

●ダイハツ社長が送った灯籠が中庭に

ガンディーニ御大やジウジアーロ御大のスケッチを眺めながらの朝食は最高だった(残念)
ガンディーニ御大やジウジアーロ御大のスケッチを眺めながらの朝食は最高だった(残念)

近年、リニューアルされてしまい、レストランの壁面に多数飾られていたデ・トマソやマセラティの重要なドローイングなどは見ることができなくなってしまいました。かつては中庭にデ・トマソ・マングスタのプロトタイプなどが無造作に並んでいたんですが。

かつてのダイニングルーム
かつてのダイニングルーム

しかし、デ・トマソの足跡が今や全く無いか、というと、そうでもありません。実は私のよく泊まる2XX号室の隣には、アレッサンドロ・デ・トマソ夫人のイザベル・ハスケル氏が今も住まわれているのです。今はクルマよりも元々の趣味であったサラブレッドにしか興味がないようですが、ホテル内でしばしばお見かけし、挨拶を交わしたりするワケです。

イザベル(デ・トマソ夫人・左)、サンティアゴ・デ・トマソ(右)
イザベル(デ・トマソ夫人・左)、サンティアゴ・デ・トマソ(右)

もうひとつ、面白い案件を。デ・トマソが傘下イノチェンティにダイハツ製3気筒エンジンを採用したことが発端で、両者でコラボレーションが行われました。そこで誕生したのが、ダイハツ シャレード デ・トマソターボでした。

シャレード・デ・トマソターボのプロトタイプ
シャレード・デ・トマソターボのプロトタイプ

こぶりなハッチバックにデ・トマソのリヴァリーを纏ったこのモデルがヒット作となったのは、もう昔バナシです。そんな両社の関係はきわめて良好で、ダイハツの社長よりデ・トマソ社へ灯籠が送られました。今もこの灯籠はホテルの中庭に見ることができます。

サンティアゴ デ・トマソと灯篭
サンティアゴ デ・トマソと灯篭

在りし日のアレッサンドロ・デ・トマソはよくホテルのバーでウイスキーを飲みながらシガーを嗜んでいたようですが、あなたもそんな歴史を思い描きながらこの歴史的ホテルに滞在してみてはどうでしょうか?

さて、落ち着いたところで、イタリアの旅を続けることとしましょう。(続く)

(文・写真:越湖信一

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越湖 信一

イタリアのモデナ、トリノにおいて幅広い人脈を持つカー・ヒストリアン。マセラティ・クラブ・オブ・ジャパン代表。ビジネスコンサルタントおよびジャーナリスト活動の母体としてEKKO PROJECTを主宰。
クラシックカー鑑定のオーソリティであるイタリアヒストリカセクレタ社の日本窓口も務める。著書に『フェラーリ・ランボルギーニ・マセラティ 伝説を生み出すブランディング』などがある。
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