スーパーカー消しゴムが超精密になって帰ってきた!夢の復活の仕掛け人とは?【越湖信一の「エンスーの流儀」vol.008】

■今こそ蘇れ! スーパーカー消しゴムブーム

カーヒストリアン・越湖信一さんが「スーパーカー消しゴムの世界」へ皆様を導くシリーズ記事の第2弾。日本におけるスーパーカーブームとスーパーカー消しゴムの切っても切れない関係に迫った前回に続き、本項ではいよいよ現代に蘇る“21世紀のスーパーカー消しゴム”の正体が明らかになります。

たかが消しゴム、されど消しゴム。その復活の背景には、大変な苦労があったようで…。


●教室の机がサーキットになったあの時代

GGF-Tが販売を開始した“超精密スーパーカー消しゴム”
遂に販売を開始した“超精密スーパーカー消しゴム”

スーパーカー消しゴムは、1970年代後半に小中学生時代を過ごした世代にとっては宝物であって、彼らの多くは学校の勉強よりも、その遊びに熱中していたはずです。

このスーパーカー消しゴム遊びに関しては多くのローカルルールがあったようですが、基本はボールペンのプッシュボタンを消しゴムへ当てて、机の上を滑らせるというアクションが用いられました。

そしてお互いに消しゴムをぶつけ合いながら、“サーキット”となる机から相手マシンを墜落させます。すると落としたマシンがウィナーとなり、落とされたマシンを獲得できるというワケです。

また、子どもたちはマシンのパワーアップにも余念はありませんでした。軽量化の中抜きや、ホチキスの針やセメダインによるパワーアップなど、日本人のカイゼン能力がフルに発揮されたのです。

しかし、スーパーカーブーム自体はあっという間に下火となってしまいました。そもそも、大きなブームほどその終焉も早く訪れるものです。スーパーカー消しゴム遊びも、もはやメジャーな存在となり、学校でも禁止が発令されたりしましたし、子どもたちにとって旬なものでなくなってしまったのです。

●あの頃の少年たちは今

子供達にスーパーカー消しゴム飛ばしを伝授する赤間氏
GGF-Tの代表赤間氏はスーパーカーの楽しさを子どもたちに教える伝道師

当時のスーパーカー消しゴムを現代の目で眺めてみるならば、結構いい加減な形をしています。筆者のようなクルマの造形には相当詳しいタイプであっても、これは何のモデル?と想像力を発揮できないものさえあります。

これらスーパーカー消しゴムを製造したのは、基本的に町工場のような小さな所帯であったようですし、当然、メーカーに製造・販売の許諾を取るなどということはしていなかったのです。まあ、当時は何事においてもこんな緩さがあったのです。

イタリア国立自動車博物館でスーパーカー消しゴムの魅力を伝える様子
イタリア国立自動車博物館でスーパーカー消しゴムの魅力を伝える赤間氏

さて、スーパーカーに熱中した世代は現在、40~60代を迎えています。現在、ビジネス界において重要な位置にある彼らの中には、スーパーカーウィルスがすでに仕込まれていましたから、彼らの多くは然るべき時点で、その発病を迎えます(コロナ禍を迎えた昨今、あまり洒落にならない例えになってしまっていますが…)。

ある者は当時のスーパーカーをクラシックカーとしてガレージに収めたり、またある者は最新のハイパーカーを購入したり、日本におけるラグジュアリーカー・マーケットの主役となっていることは間違いありません。

イタリア国立自動車博物館でスーパーカー消しゴムの魅力を伝える様子
当然ですが、イタリアの子供たちにとっては初体験!

そんな優雅なカーライフを送っているスーパーカー世代も、ふと何か物足りないものを感じることがあります。

そう、あのスーパーカー消しゴムの甘い思い出がよみがえってくるのです。学校の机の上でタカシくんと激戦をくりかえし、それを見守る素敵なヨウコちゃんの応援…。

●スーパーカー消しゴム界に現れた救世主

しかし、スーパーカー消しゴムはもう市場から消えてしまいました。そのマーケットがブームの終焉と共に消滅したこと。そして昨今、商標や意匠などに関する権利意識が高まり、メーカーの許諾なしには製造することができなくなってしまったというのがその理由です。

そんな中で、わざわざ敷居の高いイタリアのスーパーカーメーカーとライセンスの交渉をして、高額な最低保障金額を払うモノズキな会社は存在しませんでした。

子供向けスーパーカーミーティングの様子。特注トランスポーターで運んだスーパーカーと子供達
スーパーカーの伝道師、赤間さん。特注トランスポーターでスーパーカーを運び、子供達とミーティングを実施することも

さらにメーカーの許諾を取るとなると、消しゴムの形も彼らの要求する高い水準にマッチしなければなりません。いい加減なモデリングでは認められないのです。かくも難易度が高いスーパーカー消しゴムですから、その世界へ参入しようという者は長きにわたって存在しませんでした。まったく採算の取れないビジネスだからです。

そんな寒風吹きすさぶスーパーカー消しゴム界に、実は救世主が現われました。スーパーカー世代の彼は当時のスーパーカーを求め、コレクションを始めましたが、ただそれを乗り廻すだけでは満足がいかなくなりました。自らが体験したように子どもたちにスーパーカーのかっこ良さや、それを手に入れる為の情熱を伝えたいという想いがふつふつと沸き起こってきたのです。

彼はスーパーカー移動ミュージアムというトランスポーターを製作し、養護学校などでのスーパーカー体験や、絵本の読み聞かせなどを精力的に行いました。そして次に取り組んだのがスーパーカー消しゴムプロジェクトでした。

●ランボルギーニやマセラティと契約を締結

GGF-Tによるスーパーカー消しゴム製作プロセス 3Dデータの製作
GGF-Tによるスーパーカー消しゴム製作プロセス。 3Dデータの製作

新たにスーパーカー消しゴムのブームを作ろうという情熱に駆られたその“彼”とは、赤間 保氏。GGF-Tというグループを設立し(この名前もスーパーカーの著名イタリア人カーデザイナーたちの頭文字をとったというこだわりよう!)、遂にスーパーカー消しゴムの製造販売へと取り組み始めたのです。

GGF-Tが作った「現代のスーパーカー消しゴム」。マセラティ ギブリ
こちらはマセラティ ギブリ

ランボルギーニ、マセラティ、デ・トマソ、ダラーラ、GFG Style(ジウジアーロ・ファミリーの新会社)とライセンス契約を締結。実車の3Dスキャンデータや、メーカーからのCADデータに基づき形状を決め、精密消しゴムのオーソリティであるイワコーの製造による“超精密”スーパーカー消しゴムが誕生したのです。

ようやく完成したスーパーカー消しゴム。難易度の高いところから取り組もう(笑)と、なんとイタリアにおけるブーム作りのアクションを起こしたGGF-Tでしたが、その取り組みが動きはじめようとしたところでなんとコロナ禍が…。

しかし、捨てる神あれば拾う神あり。日本における思いもよらなかったブームが、スーパーカー消しゴムの追い風となったのです。(続く)

(文・写真:越湖 信一

この記事の著者

越湖 信一 近影

越湖 信一

イタリアのモデナ、トリノにおいて幅広い人脈を持つカー・ヒストリアン。マセラティ・クラブ・オブ・ジャパン代表。ビジネスコンサルタントおよびジャーナリスト活動の母体としてEKKO PROJECTを主宰。
クラシックカー鑑定のオーソリティであるイタリアヒストリカセクレタ社の日本窓口も務める。著書に『フェラーリ・ランボルギーニ・マセラティ 伝説を生み出すブランディング』などがある。
続きを見る
閉じる