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■コーリン・チャップマンが「三顧の礼」で迎えた若き日本人
ロータスF1の成功譚は、とある日本人の存在を抜きにしては語ることができない ── カーヒストリアン・越湖信一さんはそう主張します。
かのコーリン・チャップマンがその実力を評価し、自らチームに迎え入れたという若きメカニック。彼は一体どんな人物だったのでしょうか。
●レジェンドドライバーに捧げるロータス初のEVが登場
レース界のレジェンド、エマーソン・フィッティパルディとチームロータスが、 F1でドライバーズチャンピオンとコンストラクターズチャンピオンシップというダブルタイトルを獲得したのは1972年のことでした。
その50周年を記念した限定車、ロータス エヴァイヤ フィッティパルディが先日発表されました。
すでに完売がアナウンスされている電動ハイパーカーのブランディングのために、モータースポーツファンなら忘れ得ない重要なロータスF1のレジェンドが“再登場”したのです。
1972年はフィッティパルディが5勝を挙げ、F1史上最年少のチャンピオンとなった年であり、まさにこのシーズンから、黒地に金色のストライプのJPSカラーに変更した記念すべき年でもありました。
フィッティパルディ本人も「エヴァイヤ フィッティパルディとチャンピオンシップを獲得した Type72 フォーミュラ1の両方を、ヘセルのテストトラックで運転する機会を得たことは、素晴らしい経験でした」と語っています。
●日本人初のF1レースメカニック
チームロータスF1といえば、創始者のコーリン・チャップマン、そしてチームマネージャーとして腕を振るったピーター・ウォーの姿がフィッティパルディと共に思い起こされるでしょう。
しかし、そこにはもうひとりの重要な人物、それも若き日本人がいたことを忘れてはいけません。
その人物とは、日本人初のF1レースメカニックと呼ばれた伊藤義敦なのです。
生沢徹のヨーロッパにおけるレース活動を支えるメカニックとして、各地を転戦した伊藤の才能を見抜いたチャップマンは、この若き日本人をロータスF1のメカニックに引き抜こうと、自ら何度も説得を繰り返したといいます。
「急にペースを落としてピットインしてきたフィッティパルディのマシン。チャップマンは『電気系だ! スタンバイしろ』と叫ぶ。その中でひとりだけ、キャブレターのセッティングに取りかかるメカニックが。『違う! 指示に従え!』とヒートアップするチャップマンを相手にせず、その男は冷静に構える。ピットへ入ったマシンはキャブレターのセッティングに問題があったことが判明。マシンは男の“読み”が正しかったことを証明して、コースへ飛び出していった」
これは伊藤のロータス時代における有名なエピソードです。
エンジンや電気系、シャーシやサスペンションセッティングまで全てを総合的に理解し、正確で素早い仕事をした伊藤。ロータスF1の偉業に、日本人である伊藤が大きく貢献していたのです。
●デ・トマソにアポ無しで突撃した青年
やけに伊藤を熱く語るのは何故?と疑問を持つ方もおられるかもしれません。実は筆者のライフワークのひとつが、彼の足跡をリサーチすることでもあるのです。
ご存知の方もいるかもしれませんが、伊藤は残念なことに日本における交通事故で1983年に鬼籍に入っています。
しかし、筆者はご遺族や関係者、そしてヨーロッパで彼を知る人々を訪ねて、この日本人が刻んだ並ならぬスポーツカー作りの軌跡を調べて廻りました。
1941年に東京で生まれた伊藤は、自分の手でスポーツカーを作りたいという強い意志を子ども時代から持ち続けていました。熟考の結果、イタリア・モデナのスポーツカーメーカーで働くのが一番の近道だという決断を下し、1966年に渡伊し、アポイントもないデ・トマソ社を訪ねます。
デ・トマソ社はまだ創業してまもない小さなメーカーであり、オーナーのアレッサンドロ・デ・トマソは頑固で喧嘩っ早い変人として知られていました。この伊藤の判断は世間知らずとも言えますし、とにかくかなりユニークなものであったのは間違いないでしょう。
しかし、何が起こるか解らないのが世の中。遠い国から冒険心を持って飛び込んで来た伊藤にシンパシーを感じたのか、デ・トマソは彼のたどたどしいイタリア語による自己紹介を聞き、なんと即答したというのです。
「オマエは今日からウチの社員だ」、と。
そしてその偏屈なデ・トマソは、伊藤が息子でもあったかのように溺愛して世話したというから、何とも不思議ではないですか。
●マセラティで世界一周ドライブを敢行
伊藤はデ・トマソ、そしてマセラティとメカニック経歴をステップアップし、マセラティ時代の1967年には顧客のフランス人ドライバーと共に、当時最新鋭のマセラティ・ミストラルにて、日本を目的地とするイタリア発世界一周ドライブを敢行してしまったのです。
伊藤はその後、ヨーロッパのレース界でもメカニックとしての腕を上げ、前述のようにコーリン・チャップマンからF1メカニックとしてのラブコールまでもらうほどの存在になったのでした。
伊藤義敦の偉業に関してはまた、当連載でもお話したいと思っています。
(文:越湖 信一/写真: Lotus Cars Yoshiatsu Itoh Archive)