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■1つのモデルの開発責任者として歴史に名を刻む稀代の技術者
●スカイラインを通して、スポーティで運転して楽しいクーペというジャンルを開拓
残念ながら、最近の若者に「スカイラインの櫻井眞一郎」と言ってもピンとこないのかもしれません。櫻井眞一郎は、1960年代から1980年代の名車「日産スカイライン」の開発責任者ですが、特定のクルマの開発者でこれほど有名な人も珍しいのではないでしょうか。
名車中の名車スカラインを開発した櫻井眞一郎について、解説していきます。
●櫻井眞一郎のヒストリー
・1929年(S4):神奈川県横浜市に誕生
・1947年(S22):旧制横浜工業専門学校(現横浜国立大学工学部)入学
・1951年(S26):自動車メーカーの求人がなく、しかたなく清水建設に入社。セメントをこねてコンクリートにする機械やコンクリートミキサーを発明
・1952年(S27):たま自動車(プリンス自動車工業の前身)に転職、その直後にプリンス自動車工業と改称。スカイラインには初代の開発から携わり、3代目から7代目までは開発責任者
・1966年(S41):日産自動車とプリンス自動車工業が合併
・1986年(S61):オーテックジャパン初代社長に就任
・1994年(H6):エス・アンド・エス・エンジニアリング取締役に就任
・2005年(H17):日本自動車殿堂入り
・2011年(H23):82歳で死去
●功績
プリンス時代のスカイライン初代モデルから開発に関わり、2代目では車両全体のレイアウトを担当、3代目から7代目(終盤に病で抜ける)まで開発責任者を務めました。スポーティで運転して楽しいセダン(クーペ)という新しいジャンルを浸透させました。
1968年日産とプリンスの合併後に発売された3代目スカイラインは、櫻井眞一郎が初めて開発責任者となったモデルです。角ばったボディ形状から後に「ハコスカ」と呼ばれ、今でも60歳以上のクルマ好きには憧れのクルマです。
1972年の4代目スカイラインは、「ケンとメリーのスカイライン」や「愛のスカイライン」といった広告キャンペーンの人気とともに、スカイラインの人気を不動のものにしました。丸型4灯のテールランプが特長で「ケンメリ」と呼ばれました。
市販車以外のレース車の開発も担当しました。
1966年プロトタイプレーシングカーR380は、直6エンジンのミッドシップ搭載で日本GPで優勝しました。
特装車の開発と製造を行うオーテックジャパンでは、イタリアのカロッツェリア・ザガードと共同開発したクーペ「オーテック・ステルビオ・ザガード」を限定販売しました。アルミボディにカーボンファイバー製のボンネット、内装は革張りという豪華な造りでメルセデスベンツ以上の2000万円に近い高価格が評判になりました。
エス・アンド・エス・エンジニアリング時代は、ディーゼルエンジンのNOxとPM低減技術の開発に尽力して後付けシステムを商品化しました。
●エピソード
・「自分が設計したクルマは、人がケガをする前にまず自分が乗れ」の信念のもと、必ず自らステアリングを握ってテスト走行をしました。どんなにコンピュータ技術が進んでも、人間の感覚に勝るものはない、人間に勝るセンサーは存在しないと考えていたからです。
・新人が入ってくると、1週間図面に線だけを書かせました。エンジニアは、最終的に図面でしか表現方法はないので、話をする訴える図面が書けるように指導しました。
・彼の技術に対する情熱や見識、人柄を慕う多くの門下生が集まり「櫻井ファミリー」と呼ばれて、伊藤修令以下多くの優秀なエンジニアが輩出されました。
クルマの開発責任者として、同一モデルで初代から7代目まで30年以上開発の指揮を執ることは非常に稀です。
スカイラインに対する情熱だけでなく、モデルチェンジのたびに新しいアイデアを思いつく発想力やそれを具現化する技術力と実行力、プロジェクトリーダーとして必要な要素をすべて持ち合わせていた技術者と言えます。
(Mr.ソラン)