ロータリーエンジンのバイク「ノートン」のマン島シニアTT優勝とマツダREルマン優勝の共通点は?【RE追っかけ記-15】

ドイツNSU社は、1905年に自動車生産開始、第2次大戦後、ヨーロッパの庶民の足とモペッド、そしてモーターサイクルに転じ、1955年には世界最大の2輪メーカーとなります。モータースポーツに進出、世界2輪GP125cc、250ccを制し、ついで2輪世界速度記録複数を樹立します。欧州の需要が軽自動車的小型車に移行するや、いさぎよく(?)4輪に転じます。フェリックス・ヴァンケルのREの可能性に着眼、実用化に向け共同開発し、REライセンス譲渡権所有社となります。しかし、業績悪化し、VWグループに吸収されます。

1992年マン島シニアTT優勝のノートンRCW/ NRV588ロータリーエンジン・レーシングマシーン

世界の2輪産業で急速な台頭したのがホンダで、50年代後半には世界最大のメーカーとなり、2輪世界GPに挑戦します。初戦が1959年の英領マン島TTレース125ccクラスでした。一夜にして日本の2輪ファンの間にマン島TTが有名になります。

ノートンは、1907年以来、2大戦中を除き、連続開催されたマン島TTにおいて、20勝を挙げた。これは、現役のホンダ24勝に次ぐ2位。ノートンの伝説的レーシングマシーンがManx(マン島の)500/350cc単気筒。

マン島は、イングランド本土とアイルランドの間にある島で、英連合王国の領有ですが、議会を持つ自治体で、独自の伝統を有します。1907年以来、2度の世界大戦期を除き、島の公道を封鎖した長距離レース、ツーリスト・トロフィー、略称TTが開催されてきました。町、村、田園、高地を走るスネーフェル・マウンテンコースは1周60km、海抜366mの高低、200のコーナーを持つ高速コースで、路面は公道舗装です。シニアTTは、6周します。公道ですので、一斉スタートは危険きわまりなく、10秒置きに発進します。歴史、伝統、そして主催クラブの独自性から、4輪のルマンに匹敵するでしょうが、危険度ははるかに高く、2018年までに270人のライダー、サイドカーのパッセンジャーが死亡しています。ちなみにルマンは24人です(1955年の競技車クラシュの観客88人は含みません)。

第2次大戦後、1946-76年は世界2輪GPチャンピオンシップの英国ラウンドで、ジョン・サーティスは、2輪時期にMVアグスタで シニアTT4年連続優勝しています。4輪に移った彼はフェラーリで世界チャンピオン、そしてホンダF1第1期3Lで一勝を挙げたのはご存知の通り。しかし、ある年のTT死亡事故で世界チャンピオン、ジァコーモ・アゴスティーニを筆頭に数人のトップライダーが主催団体 FIMの安全対策姿勢を批判し、その年のGP4レースをボイコットしました。ライダーたちの抗議は続き、ついに1977年にFIMは英国GPを英本土サーキットに移します。

ノートンREのマン島シニアTT優勝より、マン島特産の尻尾のない猫マンクスを知る猫ファンの数が多い?

REから外れますが、2輪レースの危険性を身近に感じたエピソードです。1958、59年、私が勤めていた外資系商社が扱う独BMWと英BSAを浅間レースにエントリーしました。ライダーはBMWがレース活動を中断していたヤマハの伊藤史朗、BSAには新人高橋国光を起用しました。1959年の浅間シニア500ccのふたりのチームメイトの激闘は語り草となります。高橋は浅間後、即ホンダにスカウトされます。ホンダは、1959アサマの前に、世界2輪GP挑戦を開始し、1959マン島TT125ccクラスが初戦でした。浅間には、TT125cc 2気筒RC141と結果的に浅間1戦用となる250cc 4気筒RC160を投入しました。

とんでもない番狂わせは、クラブマン125cc優勝の功でワークスレース125ccに招待された市販ベンリーCB92に乗る新人北野元に優勝をさらわれたことです。250ccを制覇したのはなにより。北野元もホンダにスカウトされ、高橋とともにGPチームに加わります。伊藤史朗は、1960年はBMW支援でGPレーシングモデルRSでヨーロッパ・シニア500ccに挑戦します。BMWはソロワークス活動を止めていたので、マシーンの戦闘力に欠けました。彼は1961年からのヤマハのGP 250ccクラス参戦で復帰します。高橋は天才、伊藤は鬼才と形容できるでしょう。

1959浅間発、ホンダ2輪GP経由、自動車レースへ。右帽子・ポロシャツ田中健二郎は日本人最初にポディアムに登ったライダー:1960年ドイツGP250cc3位(高橋5位)。ふたり目、高橋国光、日本人最初2輪GP優勝ライダー。3人目、59年浅間125ccレースでワークス・ホンダ軍を破った市販スポーツに乗った”新人”ライダー、北野元。

高橋は1961西独GP250ccに日本人最初の優勝を遂げます。この年のマン島TT250ccでは、ふたりがぶつかります。高橋は5位、伊藤が7位でフィニッシュしました。ふたりの戦いは続きます。高橋はGP3勝、伊藤は1勝を挙げ、多くのポディアム入賞を手にしています。

伊藤史朗はマレーシアのレースで転倒負傷し、レース界から去り、アメリカへ。カリフォルニアで再会し、キャロル・シェルビーのコブラ427に試乗

1962年、高橋国光はマン島の魔物に襲われ大クラッシュ、瀕死と伝えられた重傷を負います。彼は2輪を継続しますが、賢明にも4輪に移行し、天与の才を発揮します。伊藤は1964年マレーシアのノンタイトル戦で転倒、頭部に負傷し、以後レースの世界から去りました。

1992年マン島シニアTTスタート前のスティーヴ・ヒストップのノートンNVR(RCW)588

1992マン島シニアTT優勝と3位入賞のノートン NVR588 (RCW588とも呼びます)開発と過渡の英2輪産業波乱、そしてエンジン自体のネタ元話は、次にします。

まず私見ですが、REのルマン(マツダ)とマン島シニアTTなる2大レースの優勝には、幸運の女神がついていたのです。1991年ルマンは、新規則自然給気3.5Lの予定で、実際、メルセデス・ベンツ、ジャガーは新型車開発、ルマン前の実戦に出しています。しかし、24時間の長丁場に耐える自信はなかったといいます。プジョーは間に合うといいますが、例によって最高速、ベストラップ専念型。ルマンのグリッドを埋める台数は揃いそうにもありません。主催者の知恵で、前年までの規則合致車の出場を認めました。ただし、予選タイムを問わず、新規定車がスタートグリッド前列に並ぶという解決法を出しました。メルセデス、ジャガー、そして787しかないマツダは旧規定車参加となりました。

前述のように、2輪スポーツ元締FIMは、世界GPからマン島TTを外しましたが、一方で「750ccフォーミュラ」なる新規則を施行し、メーカー、といっても日本4社が最新市販レーシングマシーンを開発します。英主催団体ACUは、ルマンACO同様、独立革新の気概を持ち、マン島TTを継続してきました。さらにFIMは、単室容積300cc x2ローターREに750ccフォーミュラ出場資格を与えます。ヴァンケルNSUからREライセンス譲渡を受けたのは英BSA グループで、小チームが開発を開始しました。BSAが経営危機に陥り、英政府指導下、投資グループが引き受け、ノートン・ヴィリアース・トライアンフ社(NVT)に再編成されます。NVTは、早々に空冷2ローター搭載車をまず警察、救急用、次に限定市販します。REチームの新リーダーは、水冷化エンジンのレーシングへの可能性に着眼します。従来の生産RE車とはまったく異なったレースシャシーを用いたNVR(RCWとも呼ばれます)588が生まれます。

1991ルマンでマツダ787Bが挑んだのはメルセデス・ベンツとジャガーの優勝戦績のあるワークス超弩級チームとポルシェ962の大群でした。1992マン島シニアTTで2台のノートンNVR588が戦ったのは日本4ブランド、ホンダ、ヤマハ、スズキ、カワサキでした。フィニッシュ26台中24台、プラス16台のリタイアが日本車でした。

「ラップ毎に首位が代わる」、その後、マン島TTファン投票で『最高のシニアTT』に選ばれたレースで、ノートンRE2台とヤマハの超弩級OW-01 (日本ではTZ750)DOHC並列4気筒1台が激闘を展開し、コース記録を更新しました。優勝ノートンに乗ったスティーヴ・ヒスロップとヤマハのカール・フォガティは、TT優勝の戦歴を持ち、一時期ホンダHRCのチームメイトでした。ヒスロップがフォガティを抑え優勝、他のノートンREに乗るロバート・ダンロップが3位を占めました。優勝車の平均速度194.05 km/h、2位193.92km/h、1-2位タイム差約1分数秒なる接戦でした。

ノートンREは、1993年には英2輪F1スーパーバイク・クラスのチャンピオンマシーンとなります。RE2輪の性能、耐久力はホンモノだったのです。

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