〈Mondaytalk星島浩/自伝的・爺ぃの独り言46〉 今回も古い話で恐縮。毎年6月になると思い出す。
日本人で初めて国際審査委員に任命され、イングランド西に浮かぶマン島で催される世界選手権TTレースに赴いたのが1967年6月。TT=ツーリスト・トロフィーの略で、GPシリーズ中最高人気のロードレースだった。
鈴鹿サーキットは昨秋、開場50周年を迎えたが、マン島TTレースは1907年に始まり、67年にダイアモンドジュビリー=60周年を迎えていた。誇らしくも分厚い革表紙のオフィシャルプログラムに名が載っている。
テクニカルスポーツクラブ(藤井暲美会長)に在籍、主催レースの企画・運営に携わっていたのと、MFJ=日本モーターサイクルスポーツ協会の事務局長だった告野端午さんが、老舗バイクメーカー=メグロの広報・宣伝担当役員時代、モーターファン編集部員としてお世話になった縁もある。
私にメーカー色がない点を評価しての任命だった。ただし、たいそうな名誉職なのだからと渡航費自弁。現地滞在費は、ほぼ主催者が負担してくれた。
ならば、役員を務めるだけでは勿体ない。平凡パンチ誌カーデスクにありながら、TBSでサンデースポーツやヤング720に出演していた関係で、TTレースを「特別番組」にしたら? と提案。海外取材にはカネがかかるものの、世界選手権ロードレースは日本勢が大活躍中だ。
ホンダ、ヤマハ、スズキのいずれが勝とうが番組スポンサーになってもらえるとの読みも働いた。撮影など取材協力が得やすいことはいうまでもない。
取材チームはTTレースが始まる前々夜、フェリーでリバプールを出てマン島に向かう。冒頭は朝日を浴びた島が姿を現わすシーン。後に番組を視聴した出場者とOB連中から「感動して涙が出た」と聞く。
曰く「TTウィーク」————67年は6月10日の土曜から月・水・金と1日おきにレースが組まれていた文字通り1週間の祭典で、フェリーは早めの夏休みを過ごす老若男女とバイクを満載。じめじめする日本の時季と異なり、マン島はカラっとした晴天が続く。
最も大きな町が南東海岸のダグラス。海に向かってリゾートホテルが並び、夜はカジノも開かれる。朝昼晩に出るマトンより私は魚料理を好んだが、午後3時のティータイムには、毎日、色や味の違うお茶が出てくる。
大会名誉総裁がフィリップ殿下。初日は役員顔合わせとマン島総督出席の開会式。独身では可哀そうだと? 食事会には主催クラブ=オートサイクルユニオンの計らいで、若く美しい秘書嬢が隣に座ってくださった。
1日目はプロダクション・スタンダードの3周レース1本。
午後6時30分開始だが、日が差す明るさで、750、500、250の3クラスが5分間隔でルマン式スタートし、大喝采を浴びていた。
スタート地点はダグラス。小刻みな起伏を経て、直線が多い西海岸に向かい、丘を越えた東北側の町がラムゼー。そこから標高400mまで一気に登って、ダグラスに戻る1周60㎞のマウンテンコースを使う。私はレース前に案内を頼んでコースを視察。レースがない4日目にも1周した。
レースは、速いマシンでも1周20分以上かかるので、眼前を通過すると、次にやってくるまではラジオ放送が頼り。しかし要所にアナウンサーがいるのと、現在順位とタイム差を本部が流すので飽きる心配はない。
世界選手権レースは、いずれも2台ずつが1分間隔でスタートする。
月曜は午前サイドカー3周、午後250cc 6周。水曜は午前125cc 3周、午後350cc 6周。金曜は午前250cc 3周、午後500cc 6周。
66年にスズキ50ccでマン島を初制覇した伊藤光夫が練習中の怪我で入院、出場できなかったのは残念だが、他にも日本人選手は多士済々。しかし125ccで期待された当時スズキの片山良美は、なんと暖機中のラジエーターカバーを外し忘れて早々に脱落。ガッカリした。
独占人気はホンダのマイク・ヘイルウッド。もちろん4輪転向前で、なんと250、350、500のトリプル・クラウンに輝いた。私は250ccの表彰を担当。2位がヤマハのフィル・リード。3位がホンダのラルフ・ブライアントだった(いずれも選手名敬称略)。
審査委員会は毎日招集される。言葉不自由な私が、なにかと図を描いて説明するので、2日目から脇にボードとカラーペンが用意されたのはお笑いだが。
4日目は会場が近くのゴルフ・ロッジ————そこで会議が行われると思い込んで出かけたら、実は審査委員会ではなくゴルフ遊びだった。プレイに参加できなかったものの、私が初めて買ったクラブセットがダンロップ製たる所以だ。
会議での私の出番はマシン技術に関する問題が多いが、ほかにもある。
ヘアピンカーブをショートカットしたとして失格を通告されたドライバー(なぜかライダーではなくドライバーと呼ぶ)が「再考」を願い出て、審査の結果「転倒者を避けるべく、コースマーシャルのリードがあった」と判明。
タイムペナルティを与えて「ラスト・フィニッシャーとする」旨、裁定したら、当該ドライバーが「アイム・ハッピー・サー」と挨拶に来たのも印象に残る。
日本マシンの高度なメカニズムに関しては私の独壇場で、図を交えながらの説明が大いに受けた————お陰でドイツ、イタリア、スペイン、からの派遣審査委員らと仲良くなり、以後、富士に舞台を移した68年の日本GPや、国際レースに昇格した鈴鹿8耐で再会した際にも和気あいあいの間柄になった。
今もマン島ウィークは健在と聞くが、公道を用いるコースが危険でFIM=国際機関が求める安全対策が完備できないと判り、ロードレース・グランプリから除外されて久しい。★