トヨタ「カローラ」はどうやって国内で「サニー」、世界で「ビートル」を抜き世界一の大衆車になったか?【歴史に残る車と技術026】

■キャッチコピー“プラス100ccの余裕”で登場した大衆車の真打ち

1966年に誕生したカローラ。日本を代表する大衆車
1966年に誕生したカローラ。日本を代表する大衆車

1966(昭和41)年4月にデビューし、大衆車の先駆けとして人気を獲得していた日産自動車「ダットサン・サニー」から遅れること約半年、11月5日にトヨタの「カローラ」がデビューしました。

サニーよりも排気量を100cc大きくした1100ccとすることで、ユーザーの上級志向に応える性能と装備で、サニーを凌ぐ人気を獲得、大衆車トップの座に君臨したのです。


●高級車クラウンに始まったトヨタのフルラインナップ攻勢

1933年に豊田織機内に設立した自動車部をルーツとするトヨタは、“日本人の手で日本人のための国産車を作る”という理念のもと、1955年に完全オリジナルの高級乗用車「トヨペットクラウン(初代クラウン)」を発売。世界レベルを目指したトヨペットクラウンには、多くの先進的な技術が投入されました。

1955年に誕生した初代クラウン(トヨペットクラウン)。日本初の純国産車
1955年に誕生した初代クラウン(トヨペットクラウン)。日本初の純国産車

1957年には、クラウンに続いてトヨタ初のモノコック構造を採用した中型大衆車「トヨペットコロナ」、1961年に小型大衆車「パブリカ」を市場に投入し、フルラインナップ攻勢を進めました。例えば、会社幹部はクラウン、管理職はコロナ、若者やファミリー層をターゲットにしたパブリカというように、トヨタは3つのモデルを棲み分けし、フルラインメーカーとして歩み始めたのです。

1961年にデビューした小型乗用車パブリカ
1961年にデビューした小型乗用車パブリカ

一方で、小型大衆車パブリカはコストを優先して低価格で作り上げたため、上級志向の大衆を満足させることはできませんでした。

そこで、パブリカよりワンランク上の小型大衆車の必要性に迫られ、カローラの登場となったのです。

●ライバルの日産サニーが大衆車の先陣を切って登場

1966年にカローラより約半年前にデビューしたダットサン・サニー
1966年にカローラより約半年前にデビューしたダットサン・サニー

1966年4月、日産から初代サニー「ダットサン・サニー」がデビューしました。当時は、日本のモータリゼーション黎明期であり、高速走行もできる本格的な車作りが始まった時期でした。

大衆車として先陣を切ったサニーは、一体成型法で剛性を確保しながら、外板も極力薄肉化を図り、車両重量は軽量な625kg。軽量ボディに56PSを発揮する1.0L直4 OHVエンジンを搭載し、最高速度135km/hを超える俊敏な走りが自慢でした。

発売後、サニーは市場から高い評価を受け、その年の12月には月販台数が1万台の大台を突破。5ヶ月で3万台を超える販売を記録し、大衆車市場をリードしました。

●サニーに対抗して排気量を100ccアップして登場したカローラ

サニーから遅れること約半年、カローラがデビューしました。1961年に誕生した小型大衆車パブリカよりも、ユーザーの上級志向に応える大衆車となることが、カローラの使命でした。

初代カローラの前席シート。室内空間の広さもアピールポイント
初代カローラの前席シート。室内空間の広さもアピールポイント

カローラは、“プラス100ccの余裕”というキャッチコピーとともに、サニーより100cc排気量が大きい最高出力60PS を発揮する1.1L直4 OHCエンジンを搭載。スタイリングは、当時最先端のセミファストバックが採用されました。

カローラの主要諸元
カローラの主要諸元

“80点+α”という開発コンセプトのもと、すべての性能をバランスさせたカローラの目標は、巡航速度100km/hが最高速度の75%以下、3速の最高速度が100/h以上、0-400m加速が20秒以下であることを掲げ、いずれの目標もクリア。サニーより遅れてデビューしたカローラですが、販売台数でサニーを凌ぎ、大衆車トップの座を獲得したのです。

車両価格は、43.2万円(スタンダード)/49.5万円(デラックス)。ライバルのサニーは、41万円(スタンダード)/46万円(デラックス)でした。ちなみに当時の大卒の初任給は、2.5万円(現在は約23万円)程度、単純計算すればスタンダードが現在の約400万円に相当します。

●モータリゼーションを支えたカローラとサニーの熾烈なCS戦争

カローラとサニーは、大衆車という言葉を作り出し、日本のモータリゼーションをけん引し、“C(カローラ)S(サニー)戦争”と呼ばれた熾烈な販売競争を繰り広げました。

当時は、1964年に東京オリンピックが開催され、日本は世界に前例のない高度経済成長期を迎え、国民の所得が急増しました。1966年には平均年収が100万円を超え、カローラとサニーの値段は年収の半分以下であり、大衆が入手できる車になったことも、販売促進の追い風となったのです。

圧倒的な人気を誇ったカローラとサニーですが、その設計思想は全く異なっていました。カローラは、排気量を100cc増やすことによる走り、乗り心地、静粛性、室内空間などすべてにおいてバランスの取れた大衆車。

一方のサニーは、軽快さと信頼性を重視し、ボディはやや小ぶりでシンプル。それゆえ、俊敏な加速と軽快な走りが特徴でした。

カローラとサニーの販売競争は熾烈で、1970年にはサニーが排気量を1200ccに拡大して“隣の車が小さく見えます”とやり返し、カローラもすぐに排気量を1200ccに拡大して対抗。その後も、スポーティモデルの追加や排気量アップなどバリエーションを増やして張り合いました。

長くライバル関係は続きましたが、カローラが販売台数で優位に立ち、カローラは、1997年に単一モデルでフォルクスワーゲン「ビートル」を抜いて“世界一売れている車”となり、現在もその記録を更新中。一方のサニーは2004年に生産を終了します。

●カローラが誕生した1966年は、どんな年

1966年は、サニーとカローラが国民的な人気を得て大衆車市場を切り開いたことから、“マイカー元年”と呼ばれています。同年には、サニーの他に富士重工業「スバル1000」やプリンス自動車「プリンスR380」も登場しました。

1966年にデビューしたスバル1000、スバル初の小型車
1966年にデビューしたスバル1000、スバル初の小型車

サニーは、軽量ボディのファストバック風の斬新なスタイリングでマイカー時代の先陣を切り人気を獲得した大衆車。

スバル1000はスバル初の小型車で、FFレイアウトや水平対向エンジンを搭載した先進技術が特徴。

プリンスR380は、打倒ポルシェ904のためにプリンス自動車が開発したレース用マシンで、1966年第3回日本グランプリにおいて1、2フィニッシュを飾った高性能マシンです。

その他、この年には日本の人口が1億人を突破し、ビートルズが来日してミニスカートとロングブーツが流行りました。TV番組「笑点」と「ウルトラマンシリーズ」の放映が開始され、江崎グリコの「ポッキー」、明星食品「チャルメラ」とサンヨー食品「サッポロ一番」の発売が始まりました。

1966年の第3回日本GPで優勝したR380
1966年の第3回日本GPで優勝したR380

また、ガソリン51円/L、ビール大瓶120円、コーヒー1杯76.5円、ラーメン70円、カレー126円、アンパン16円の時代でした。

サニーとともに日本のモータリゼーションをけん引し、手の届かなかった車を大衆化させた立役者であり、現在も世界一の販売記録を更新中のカローラ。日本の歴史に残る車であることに、間違いありません。

Mr.ソラン

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Mr. ソラン

某自動車メーカーで30年以上、自動車の研究開発に携わってきた経験を持ち、古い技術から最新の技術までをやさしく解説することをモットーに執筆中。もともとはエンジン屋で、失敗や挫折を繰り返しながら、さまざまなエンジンの開発にチャレンジしてきました。
EVや燃料電池の開発が加速する一方で、内燃機関の熱効率はどこまで上げられるのか、まだまだ頑張れるはず、と考えて日々精進しています。夢は、好きな車で、大好きなワンコと一緒に、日本中の世界遺産を見て回ることです。
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