マツダロータリーを「誕生前」から知る2人、山口京一と鈴木脩己の懐メロならぬマツダ協奏曲(狂騒曲ではない)の旅

■ロータリーの開発に、マツダの発展に大きく関与した山口京一

回転運動だけの「夢のエンジン」として世界中の自動車メーカーが研究し、結果としてモノにしたのは日本のマツダだけというロータリー・エンジン。その数奇な技術をマツダが現実のものとさせる以前から知る二人が広島を訪問した。

山口京一
山口京一

御一人は、日本人としてもっとも海外でも知られ、間違いなく日本を代表する自動車ジャーナリストの山口京一さん。その「山京さん」は、日本のみならず、世界中の自動車技術の発展を見続け、その最先端の情報を、時にジャーナリズムとして鋭い批判も交え、我々に伝え続けてきた。

守秘義務もあり公にされることはないが、中でも広島のロータリーには黎明期以前から、ロータリーに限らずマツダ車の開発に多くに、大いに深く関わりを持ってきた。

鈴木脩己
鈴木脩己

そしてもう一人である鈴木脩己は、日本最古の自動車雑誌「モーターファン」の三栄書房(現三栄)社長を長く務め、日本の自動車ジャーナリズム、ジャーナリストを育み、現在の日本カーオブザイヤーの原型を作り、東京オートサロンを生み出すという、まさに日本の自動車文化を裏から表からから作り上げたひとり。その新しもの好きの性格から、当然ロータリーエンジンも技術的確立を見る前から興味津々。NSUヴァンケルスパイダーに試乗し、Ro80(ローエイティ)を所有した経験を持つという鈴木は、コスモスポーツ発売時には、マツダ宇品工場で試乗したこともあるという。

山口京一執筆の書籍
山口京一執筆の書籍

マツダがこれまでの山京さんの功績から、感謝を込めて、広島の同社三次(みよし)自動車試験場でロータリー車に試乗していただき、新しいロータリー・エンジンの製作現場である工場見学と、本社にて講演をしていただくこととなり、旧知の鈴木も同行することとなった。果たしてその顛末やいかに。鈴木脩己に筆を執ってもらった(実際にはキーボードですが…)。


●山京&ロータリーファン、マツダの聖地広島へ向かう

山口京一さんが、マツダでマツダOBや現役社員の方々に講演をされると聞き、山京フアンの老生としては、これは聞きにいかずばなるまい、と久方ぶり、広島・マツダにお邪魔した。

まずは三次へ。

三次に並んだマツダの名車と現役、OB社員
三次に並んだマツダの名車と現役、OB社員

三次テストコースに並んでいたのは、以下の歴史車。

初代コスモ・スポーツ、初代ユーノス・ロードスター&現行マツダ・ロードスター、マツダRX-8、そして、最新のロータリー・エンジンを発電機として搭載するMX-30ロータリーEV。

初代コスモスポーツ(1967年5月30日発売)には、発表時、広島宇品の東洋工業(現マツダ)のテストコースで乗った。

山本健一(社長在任期間 1984年-1987年)
山本健一(社長在任期間 1984年-1987年)

その時、山本健一(東洋工業のエンジニア、後に社長、マツダロータリーエンジンを生んだ一人)さんが、「モーターファン(月刊誌)さんには、さんざん批判されて、苦労しましたよ」とおっしゃられた。当時、モーターファン誌では、ロータリーエンジンはいかにダメかという、富塚清先生の論を展開していた。

マツダのロータリーエンジン研究部
マツダのロータリーエンジン研究部

山本健一さんは、「たしかに、ロータリーエンジンの弱点は言うとおりですが、チャターマークは、カーボンのアペックスシールでクリアしましたよ」とおっしゃった。

この、技術者”魂”の権化のごとき山本健一さんの言葉にしびれた。

かつて、老生は、NSU Ro80(NSU社のロータリーエンジンを搭載した西ドイツ製乗用車)に乗っていた。これまた欠陥車のかたまりみたいなクルマだった。

チャターマーク(悪魔の爪痕)
チャターマーク(悪魔の爪痕)

まず、チャターマーク(その後マツダが克服に成功するローター回転により付いてしまうエンジン燃焼室内の傷)で、圧縮が無くなり、エンジンを換装(たしか60万円くらい)した。が、都内を走っていると、すぐにプラグ(2本)が“かぶる“。交差点で立ち往生することしばしば。で、アウディ(NSU社は後にアウディに吸収された形となる)に行ったときに、このことを訴えた。それから1年くらいしたある日。日立電機の方が突然、訪ねてきた。プラグ(1箱)を預かってきたと。

へー、ドイツからみると、東京も日立も同じなんだ、とわざわざ寄ってくれた日立の方に感謝した。

さらに、寒い冬の朝には、キャブレターがオーバーフローして、下にあるエキパイ(排気管)にガソリンがじゃーじゃーこぼれて、けむりがもうもう。そう、Ro80は、ペリフェラルポートなのです。

とどめは、はるばる盛岡へ行ったとき、ドライブシャフトのテーパーベアリングが壊れて、走行不能に!

お金は使うは、旅の途中でリタイヤするはと、うちの奥さんがお怒りになり、松田コレクションにRo80を差し上げ、Ro80の悪夢は終わった。

マツダ コスモスポーツ
マツダ コスモスポーツ

でも、老生がロータリーエンジンフアンであることには変わりがなかった。

それはさておき、かつて、三次テストコースでは、ファミリア・ロータリークーペに試乗。200km/hでまさに飛ぶように走り、さらに、山陽道、名神、東名と東京まで乗って帰ってきたのも、いい思い出だ。

●広島本社で行われた講演会は秘密が満載!

山口京一さんの講演は、山京さんしか知らない超レアな“裏話し”のオンパレード。

特に、老生とって、かつての「浅間火山レース(通称)」で、BMWを駆る「伊藤史朗」とBSA500に騎乗する「高橋国光」さんのランデブー走行は、未だ、瞼に焼き付いているのだが、そのBMWとBSAを走らせたバルコム(当時のBMWとBSAの輸入販売会社)の社員が、山口京一さんだったのだ。

BMWイセッタ
BMWイセッタ

また、「BMWイセッタ」のモーターファン・ロードテスト(一台の車両について徹底的にテストし、メーカーやインポーター側とジャーナリストや研究者で座談会を行っていた雑誌企画)では、バルコムの社員として、“あちら側”に座っていたのだが、数年後のMFロードテストでは、“こちら側”に座っていることになったのだ。

1969年、ホッケンハイムリンクでテストドライブを行なうファーストバージョンのC111
1969年、ホッケンハイムリンクでテストドライブを行なうファーストバージョンのC111

講演では、「RX-7のアメリカでのお披露目のウラ話、メルセデス・ベンツC111(未発売に終わったロータリー・エンジンを搭載するメルセデス・ベンツのコンセプトカー)の同乗、水上飛行機の写真をバックに山本健一さんの「私はロマンチスト 空と海」、etc.

山口京一さんの話しに堪能した講演だった。ありがとうございました。

(文:鈴木脩己/まとめ:小林和久/編集:三代やよい/写真:小林和久・マツダ・他)

この記事の著者

小林和久 近影

小林和久

子供の頃から自動車に興味を持ち、それを作る側になりたくて工学部に進み、某自動車部品メーカへの就職を決めかけていたのに広い視野で車が見られなくなりそうだと思い辞退。他業界へ就職するも、働き出すと出身学部や理系や文系など関係ないと思い、出版社である三栄書房へ。
その後、硬め柔らかめ色々な自動車雑誌を(たらい回しに?)経たおかげで、広く(浅く?)車の知識が身に付くことに。2010年12月のクリッカー「創刊」より編集長を務めた。大きい、小さい、速い、遅いなど極端な車がホントは好き。
続きを見る
閉じる