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■NISMOフェスティバルのラストランで、栄光のキャリアに終止符
2002(平成14)年12月1日、同年8月にレーシングドライバーの引退を表明していた星野一義選手が、日産自動車モータースポーツの祭典「NISMOフェスティバル2002」のイベントで、1998年のル・マン24時間レースで総合3位となった思い出の日産「R390」でラストランを終えました。
●フェスティバルの真打として、“日本一速い男”星野選手が登場
2002年8月、”日本一速い男”と呼ばれ、30年以上日本のモータースポーツ界をリードしてきたレーシングドライバーの星野選手が、55歳の夏に引退を表明しました。
二輪のモトクロスに始まり、四輪のツーリングカーやGTカー、フォミュラカーと、オールラウンダーのレーサーとして通算133勝、21の四輪タイトルを獲得、“日本一速い男”という称号で多くのファンに愛され続けました。
そして同年のこの日、日産モータースポーツの祭典「NISMOフェスティバル2002」が、富士スピードウェイで開催。この年で6回目をむかえる同イベントには、雨にもかかわらず過去最高の4万9000人が詰めかけ、様々なエキシビションレースの後、この日一番のイベントであるレーシングドライバーとしてのキャリアに終止符を打った星野選手のラストランが行われたのです。
●星野一義氏の略歴
・中学時代の夢は、モトクロスチャンピオン
星野一義氏は、静岡県安倍郡玉川村の和菓子を営む家庭に生まれました。配達用にオートバイもスクーターもあり、また父親は大の車好きでオースチンやルノーを所有していました。東海中学の頃には、バイクや車に夢中になり、父親の目を盗んではバイクを安倍川まで押して行って(免許がないので)河原で乗って楽しみ始めました。
その頃、藤枝で開催されたモトクロスレースを目の当たりにして、その魅力の虜になった星野少年は、モトクロスチャンピオンになることを決心したのです。
・高校を中退し、21歳でモトクロスチャンピオンに
モトクロスに夢中になった星野少年は、東海高校を1学期でやめ、家出同然で上京、当時モトクロスのトップライダーだった安良岡健選手に弟子入り。安良岡選手のカワサキコンバットチームで先輩のバイクを整備しながら練習に励み、わずか18歳で第12回全日本モトクロス(ノービス90ccクラス)で優勝を飾りました。
1968年、21歳の時にカワサキの契約ライダーとなり、MFJ全日本モトクロス選手権の90ccと125ccで優勝し、早くもモトクロスライダーで日本一になるという夢を叶えたのです。
・二輪から四輪へ転向
モトクロスライダーとして名を上げた星野選手のもとへ、日産自動車からワークスドライバーのテストを受けないかとの誘いがあり、圧倒的な走りでテストに合格し1969年に日産ワークスチームと契約。しかし、トップマシンに乗るチャンスがもらえず、さらに1973年のオイルショックで日産ワークスチームが活動休止。それにも負けず、1974年に東名ファクトリーから参戦し、FJ1300のデビュー戦で優勝を飾ります。
翌1975年からはF2に参戦し、すぐにチャンピオンを奪取。ここに、モーターサイクルでも、モータースポーツでも日本一の栄誉を勝ち取ったのです。
・F1スポット参戦、日本一速い男の称号
1976年、星野選手にF1世界選手権の最終戦となったF1イン・ジャパンにスポット参戦のチャンスが到来。レース展開では一時3位につけるも、ホイールが足りずにタイヤ交換ができず無念のリタイヤ。1977年にはF2チャンピオンに返り咲き、1978年は富士GCとF2のダブルチャンピオンとなり、この頃から誰が言い出したか、“日本一速い男”と呼ばれるようになりました。
その後も多くの輝かしい記録を作り、1983年にはホシノ・レーシングチームを設立し、チーム運営にも参入。1990年のJTC開幕戦、星野選手のカルソニック・スカイラインGT-Rはシリーズ6戦中5勝という圧倒的な走りを見せ、その後シリーズ終焉までの3年間、GT-Rは破竹の29連勝という記録を残したのです。
また1998年には、ル・マン24時間レースに参戦し、鈴木亜久里選手、影山正彦選手のトリオで3位の表彰台に上がりました。
星野一義氏は、たとえレースに負けても、その妥協なき戦う姿勢をつらぬき続けることから“日本一速い男”の勲章を最後まで誰にも譲ることがありませんでした。彼の引退によって、日本のモータースポーツが下火になったと言われるほど、偉大な存在だったのです。
毎日が何かの記念日。今日がなにかの記念日になるかも知れません。
(Mr.ソラン)