【第4回・2020年8月4日公開】
エンジン付自転車で成功した鈴木自動車(鈴木式織機株式会社より1954年に社名変更、1990年からスズキ株式会社)は、1955(昭和30)年に本格的な2輪車「コレダ号」を発売。2輪車事業も軌道に乗ったことから、さらなる技術力向上と企業アピールのため、モータースポーツ活動に取り組みました。
1953(昭和28)年の第1回富士登山レースに「ダイヤモンドフリー号」で、翌1954(昭和29)年の第2回レースでは本格2輪車「コレダ号CO型」で2年連続の優勝を飾りました。
しかし、その後挑んだレースでは善戦するも結果が出ず、参戦を中断。ところが、創立40周年の1960(昭和35)年に鈴木自動車は世界の大舞台「マン島TT」への挑戦という大きな決断をしたのでした。
第1章 始まりは鈴木式織機、そして2輪車への挑戦
その4.本格的2輪車の開発とレース参戦
●エンジン付自転車から本格2輪車へ
エンジン付自転車の「ダイヤモンドフリー号」の成功の後、本格的な2輪車の製造に着手。これを機に、1954(昭和29)年6月に社名を「鈴木自動車株式会社」に改め、鈴木自動車は本格的な自動車メーカーとして歩み始めました。
初の本格2輪車は、1955(昭和30)年にデビューした排気量125ccの4ストロークエンジンを搭載した「コレダ号COX型」です。また、並行して2ストロークエンジンの「コレダ号ST型」も発売。高トルクの2ストロークエンジンの特長を生かした「コレダ号ST」は、発売とともに爆発的に販売を伸ばしました。
また1960(昭和35)年には、大ヒットした1958(昭和33)年発売のホンダ「スーパーカブ」を追随する「スズモペット」を発売。排気量50cc、最高出力4PSの2ストロークエンジンを搭載して最高速度80km/hを発揮、世界初の4段ロータリーミッションを採用するなど、最先端の技術を採用して高い評価を得ました。
●モータースポーツへの参戦
2輪車で実績を上げて自信をつけた鈴木自動車は、さらなる技術力の向上と社外アピールのため、モータースポーツへの参戦に取り組みました。
1953(昭和28)年に開催された第1回富士登山レースに「ダイヤモンドフリー号」で初参戦して初優勝、翌1954(昭和29)年の第2回富士山レースでは、本格2輪車の「コレダ号CO型」で2年連続の優勝を飾りました。
1955(昭和30)年には、浅間山の麓で開催された第1回全日本オートバイ耐久ロードレース(通称:浅間火山レース)に「コレダ号」のレース専用車で参戦。当時の最先端技術を採用した高性能車でしたが、その年発売されたヤマハの「YA-1(愛称・赤トンボ)」にはどうしても勝てませんでした。
●レース活動の中断と再開
鈴木自動車は、浅間火山レースでの敗北の後、レースへの参戦中断を決定しました。勝てなかったからではなく、1955(昭和30)年の4輪自動車「スズライト」の発売を控えて2輪と4輪の両事業を軌道に乗せるために、開発リソースに余裕がなくなったためです。
レースチームが参戦を心待ちにしていた頃、勝てる見込みがあるならという条件付きで1957(昭和32)年の第3回浅間火山レースへの挑戦が許されました。チームは、総力を結集して3ヶ月前から浅間山で合宿して、マシンの改良を繰り返して準備しました。ところが、本選では予期せぬタンク亀裂などが発生して、結果は1台のみの完走で5位入賞という散々な結果となってしまいました。
再びレースの舞台に戻ることはないと意気消沈していたチームのもとに、大きな使命が与えられたのは、1959(昭和34)年末のことでした。
創立40周年にあたる1960(昭和35)年、鈴木自動車はなんと世界GPの大舞台「マン島TT」への挑戦を決断したのでした。
(文:Mr.ソラン 写真:スズキ、ホンダ)
第5回につづく。
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