目次
■スーパーエンジニア、百瀬晋六さんが生み出したもの
●日本では後にも先にもスバルのみ! 左右対称ボクサーゆえの、シンメトリカル配置の小型FF車
今では1台のクルマを作ることは、そう難しいことではありません。今までの経験もあるし、サプライヤーも充実しているし、なによりもコンピューターが発達しているので、難しいテストはシミュレーションで処理できるというのが、メーカーの利点。
しかし、売れるクルマを作ることや、辛口のジャーナリストを唸らせるクルマを作るのは非常に難しい。性能や価格だけでは、勝利の方程式にならないと思うけどね。
●ハリアーに有ってアコードに無いものとは?
こんな例もあるよ。最近試乗したハリアーは、1ヵ月も経たないのに4万台の受注を獲得したらしい。関係者はホクホクだと思うね。
実はハリアーはRAV4と同じプラットフォームで開発されるけど、そのデザインはかなりいけてる。しかも、けっこう高いモデルが売れているようだ。レクサスNXよりも大きくて、室内は広い。走りはハイブリットでもガソリン車でも納得できる。
同じ時期に登場したホンダ・アコードはどうなのかしら。ハイブリットのパワートレーンは素晴らしく快適だが、セダンというパッケージとアコードという昔の演歌歌手のような名前では、インパクトが足りないのです。
ハリアーは乗った瞬間に「売れそう」と思ったけど、アコードは「売れるか?」という感じだった。もともとアコードはアメリカで人気があるので、日本では最初から売れるとは思っていないのかも。ホンダに叱られそうだが、正直な印象です。
現代は売れるクルマを作ることは、技術だけでなく入念にマーケットを調べ、ユーザーの気持ちを理解する必要がありそう。そこがホンダの不得意なところかもしれないのです。
●スバルP1とスバル360に見える、百瀬晋六さんのエンジニア魂
話しを戻すけど、今から50年くらい前は、1台のクルマを作ることはそう簡単ではなかったのですね。
前回Vol.2に登場した中川良一さんと同世代の百瀬晋六さんは、同じ中島飛行機の時代に、機体を設計していたエンジニアだったのです。
中川さんはエンジン、百瀬さんは機体を設計していました。戦後は中川さんがプリンス自動車から日産自動車で働いたわけですが、百瀬さんはスバルで孤軍奮闘し、スバルP1というプロトタイプ(世に出すことができなかった)とスバル360を作ったのです。
当時は飛行機のエンジニアがどうやってクルマを作るのかと疑問に思うわけですが、参考書もない時代だったので、百瀬さんは日比谷図書館に通いながら欧米の自動車工学を学びながら図面を書いたようです。
スバル360は当時の政府が企画した国民車として開発されました。政府系金融機関が融資を受けて、なんとか自動車メーカーとしての第一歩を記したのです。
ちなみにP1はFRのミドルクラスの中型車だったのですが、まだ国民が貧しかったので、スバルには国民が買える国民車を作ることになったのですね。しかし、スバル360が予想以上にヒットし会社にお金が入ると、今度は本格的な小型車の開発を計画したのです。もちろん指揮官は百瀬さんですね。
●日本初のボクサーエンジン+左右対称の小型FF車、スバル1000誕生!
P1の経験を生かし、エンジンはフロントに置くけど、フロントのタイヤで駆動するFFを考えたのです。
1960年代は中大型車はFR、小型車はRRと相場が決まっていたし、FFといえばミニがありましたが、ミニの方式はエンジンとギアボックス・デフが2階建て構造なので、百瀬さんは気に入らなかったのです。そこでデフをフロント車軸の中央に置くレイアウトを考えたのですね。
百瀬さんはスタッフを集めて、大きな白紙にタイヤを4つ描き、フロントタイヤの真ん中にデフを置いたのです。さすが、百瀬さん。まるで戦闘機のような左右対象のパッケージを描いたのです。
スタッフはこのレイアウトに相応しいエンジンのアイディアを出すのですが、全長を長くしないで室内を広くするためのFF車なので、デフの前側に搭載するエンジンは前長を短くすることが条件でした。
当時の話を聞いたことありましたが、V型4気筒、水平対向4気筒が考案されたのです。全長を短くすることが目的だったので、180度のV型4気筒ではクランクシャフトを短くできないので、向き合うシリンダーのコンロッドを同軸に配置することで、左右対称のピストンはボクシングで打ち合うように動くので、ボクサーエンジンと呼ばれているのです。現在生産しているメーカーは、4輪車ではポルシェとスバルだけですね。
このエンジンは振動も打ち消し合うので、小型車に採用するとまるで高級車のようにスムースに回るのです。ちなみに水平対向エンジンの基本パテントはカール・ベンツによって考案されたようです。
百瀬さんたちが作った小型車はスバル1000と命名され、重心が低く、コンパクトなアルミブロックの水平対向4気筒エンジンを積む、シンメトリカル=左右対称の小型FF車が誕生したのです。
当時のFFの問題はハンドルの重さでしたね(当時はパワーステアリングがない!)。女性でも運転できるというのが百瀬さんのコンセプトだったので、キングピン軸をタイヤの中心に近づけるために、ブレーキはエンジンルームの中にレイアウトしたアウトボードタイプを採用。
当時、日本から生まれたスバル1000は欧州でも話題となり、航空エンジニアの意地を見せつけることができたのです。百瀬さんは航空エンジニアとしてのプライドも高かったのだと思いました。
(文:清水 和夫/画像:(株)三栄 モーターファン別冊すべてシリーズ・AUTOSPORT)