オレの運命を変えるGC10スカイランを作った飛行機メーカーのエンジニアは一千馬力エンジンに青春をかけた中川良一さんだった【清水和夫のクルマたちよこんにちは Vol.2】

■クルマは人生を変える

●GC10スカイラインで走り屋人生スタート!?

「クルマは人生を変える」とずっと昔から思っていました。初のマイカーは三代目スカイライン(GC10)でしたが、このクルマと出会ったことで、私の人生は「走り屋」という運命に決まってしまいました。

スカイラインGC10
俺の人生を変えたスカイラインGT-R・GC10。

しかし、当時の私はスカイラインというクルマがどのくらいの名車だったのか、知る由もありませんでした。

スカイラインに乗って大学に通うと、クルマ好きが集まってきて、サーキットや山に連れ出されたのです。知らないうちに走る難しさと楽しさを覚え、クルマのメカにも没頭していきました。

TE27レビン
TE27レビンには、赤・緑・白と3台乗り継ぎました。これはダートジムカーナでの華麗なる1シーン!

その後、スカイライン、ランサー、TE27レビンを乗り継ぎ、ラリーの世界にハマっていったのです。

同時にレースにも興味を持ち、TS1300クラスのサニーで富士1000kmレースに参戦し、初めて耐久レースの醍醐味を味わったのです。

1979年7月富士1000km
1979年7月富士1000km、カーNo.55ASADAサニー。

以来、ラリーとレースの両刀使いの走り屋となったのです。資金が尽きたころ、スバルに拾われ、初めてプロの世界に入りましたが、パワーのないレオーネ、しかもハンドルが重くて、アンダーステアのないレオーネをいかにねじ伏せるのかに苦労したのです。

レオーネ
ハンドル重い、アンダー少ないで大変だったレオーネ。

●スバルとスカイラインは同じDNA

スバルで色々なことを学びましたが、スカイラインと同じDNAを持っていることを知ったのです。そこからむしゃぶりつくようにスバルとスカイラインの出生の秘密を学びました。

中島飛行機跡地
現在、日産プリンス東京荻窪店の角にはこんな牌があります。

戦前には中島飛行機という日本で最大の民間企業であり、戦闘機を作る航空機メーカーが存在していました。戦後は解体されたのですが、日本でも最高の頭脳集団はいくつかの企業に分散されてしまいました。

零式艦上戦闘機
零式艦上戦闘機(零戦五二型)のエンジンは、スカイラインのルーツです。

そのひとつの企業が富士重工業となり、スバルを生み出したのです。もうひとつの企業は富士精密という企業で、立川飛行機を由来とするたま電気自動車と協業し、エンジン車を開発したのです。当時の皇太子が乗ったこともあり、社名をプリンス自動車と命名したのです。

たま電気自動車
日本初の電気自動車、たま電気自動車。

多くの航空機エンジニアがいるプリンス自動車は、海外メーカーとの提携を嫌い、独自の技術でスカイランを生んだのです。

ときは1954年、まさに私が生まれた年だったのです。

スカイラインとの運命的な出会い、さらにスバルとの出会いはスカイラインが導いた定め…だったのかもしれませんね。

プリンス自動車
当時の皇太子が乗ったことで、社名をプリンス自動車と命名。

●真のスカイラインの生みの親、中川良一さんに逢いたい

走り屋の人生はクルマとの出会いだけでなく、それを作ったエンジニアとの出会いも忘れることができないのです。R32GT-Rで有名になった8代目スカイラインが発表されると(1989年頃)、私はスカイラインを作った人に会いたくなったのです。モノの本では櫻井眞一郎さんが作ったと言われていましたが、中島飛行機のエンジン設計者であった中川良一さんこそが本当のスカイラインの生みの親だったのです。

中川良一さん
中島飛行機のエンジン設計者、中川良一さん。

スカイラインの話しを聞くために、新宿のとあるホテルの一室でインタビューしたのです。しかし、中川さんはスカイラインよりもむしろ飛行機の話しに熱心でした。中島飛行機で中川さんはゼロ戦のエンジン開発に携わっていたことがあり、1000馬力級のエンジンを作ることに青春のすべてを捧げていたというのです。

「フムフム」と戦時中の航空機エンジンの開発の難しさを聞きていました。戦時中は国が滅びるかどうかというプレッシャーと戦いながら、若きエンジニアだった中川さんは孤軍奮闘していたというのです。まともな潤滑油もない戦争の現場では、設計通りの性能が得られなかったようです。インタビューが終わると、こんな会話になりました。

中川:君は何でこんな古い人間に興味を持ったのですか?

清水:スカイラインがなぜ伝説にまでなった名車なのか。その初代のエンジニアが何を考えていたのか知りたかったのです。

中川:あの時代は何でもできた気がしたね。

清水:ところで、戦後ですが、プリンスと富士重工はなぜ海外メーカーと提携しなかったのでしょうか?

中川:う~ん、何故だろうね。たぶん、お互いに中島(中島飛行機)の血を受け継いでいるからね、人の物まねは嫌いだったのだろう。

清水:その精神は戦前から、日本の技術者のなかにあったのでしょうか?

中川:ある程度、独自性を重んじた時代だったように記憶している。

「人の物まねは嫌い」という中川さんの言葉は強烈でした。戦後、日本は海外から学びながら自動車産業を育てていきました。当時のエンジニアの多くは、海外から自動車に関する理論を学びましたが、モノづくりにおいては実は独自性を重んじていたのですね。トヨタもホンダも同じであったと思います。

つづく

清水和夫さん
俺が清水和夫だ~! 20台前半かな(笑)。

(文:清水 和夫/画像:清水 和夫・AUTOSPORT・Racing on)

この記事の著者

清水和夫 近影

清水和夫

1954年生まれ東京出身/武蔵工業大学電子通信工学科卒業。1972年のラリーデビュー以来、スーパー耐久やGT選手権など国内外の耐久レースに参加する一方、国際自動車ジャーナリストとして活動。
自動車の運動理論・安全技術・環境技術などを中心に多方面のメディアで執筆し、TV番組のコメンテーターやシンポジウムのモデレーターとして多数の出演経験を持つ。clicccarでは自身のYouTubeチャンネル『StartYourEnginesX』でも公開している試乗インプレッションや書下ろしブログなどを執筆。
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