豊田喜一郎とは?トヨタとトヨタグループの礎を構築した実質的創業者【自動車用語辞典:クルマの偉人編】

■父である豊田佐吉の豊田自動織機から自動車事業に進出

●創業時の志は、完全オリジナルの国産車の製造と日本の自動車産業の発展

豊田喜一郎はトヨタの実質的な創業者で、現トヨタグループの礎を築きました。「日本人の手で日本に合った日本人のための国産車を作る」という崇高な理念のもと、エンジンからボディまで完全オリジナルの乗用車を完成させました。

発明家であり経営者としての才覚にも恵まれた豊田喜一郎の偉業について、解説していきます。

豊田喜一郎
豊田喜一郎(写真:トヨタ自動車)

●豊田喜一郎のヒストリー

・1894年(M27):現在の静岡県湖西市で織機の製造業を営む豊田佐吉の長男として誕生

・1917年(T6):東京帝国大学工学部機械工学科へ入学

・1920年(T9):父佐吉が創業した豊田紡織に入社、自動織機の開発に取り組みG型自動織機を完成

・1926年(T15):G型自動織機量産のため豊田自動織機製作所を設立、常務取締役に就任

・1933年(S8):豊田自動織機内に自動車部を設立

・1936年(S11):乗用車とトラックの生産開始

・1937年(S12):トヨタ自動車工業を設立、副社長に就任(初代社長は、姉婿の豊田利三郎)

・1941年(S16):トヨタ自動車工業社長に就任

・1950年(S25):社長辞任、ヘリコプターのエンジン開発に取り組む。

・1952年(S27):社長復帰内定も57歳で死去

●功績

1929年に欧米へ出張し、黎明期の米国の自動車産業を目の当たりにして、自動車に取り組むことを決意しました。最もこだわったのは、ボディやシャシーの設計製作を専門メーカーに任せず、クルマのすべてを自社設計する完全オリジナルによる本格的な乗用車を作ることでした。

外国の技術で構成された名ばかりの国産自動車では、日本工業の発展には繋がらないと考え、まず自社製エンジンの開発に取り組みました。失敗に失敗を重ね、遂に1935年自社技術だけで製造したG1型トラックが完成しました。

部品メーカーとの緊密な連携を図るため、東海飛行機(現アイシン)やトヨタ車体工業(現トヨタ車体)、日本電装(現デンソー)と次々に関連会社を興し、トヨタグループの礎を築きました。

「必要なものを、必要なときに、必要な数だけ作る」ことを目指して、在庫を減らすことを徹底させました。これが、後にトヨタ生産方式として世界が注目した「ジャスト・イン・タイム(かんばん)生産方式」の基礎となりました。

クルマの割賦による販売を促進するため、自動車メーカーと販売会社を独立させてトヨタ自動車販売会社を設立しました。

●エピソード

・1930年前後の自動車のほとんどがGMとフォードであった時代に、未知の自動車産業への参入は無謀との意見が多く、周囲から大反対を受けました。

そのような中、父佐吉にも先見の明があり、「おまえは自動車をやれ」と言われたそうです。

・今もトヨタに受け継がれている「現地現物主義」は、豊田喜一郎の教えです。

実物を見て触って理解を深め、素早い決断と実行をするというのが、モノづくりの基本であることを社員に徹底させました。

会議室で議論している社員がいると、「議論するなら、会議室でなく現場でやれ」と怒鳴りつけたという逸話が残っています。

・他にない新しい取り組みに尻込みする社員に、「他社は他社、トヨタはトヨタ。他社より優れたやり方をしなければ、勝てない」と部下を叱咤激励したそうです。

・2018年米国自動車殿堂入りを果たしました。

豊田章男社長は、「自動車殿堂入りを果たしたことは、トヨタの後継者として孫として大変誇らしく思います」とコメントしています。


国産車を作り、日本に自動車産業を興すという高い志のもと、徹底した現地現物主義ですべての段階での無駄を省くという豊田喜一郎の教えが、現在のトヨタの大きな財産となっています。

豊田喜一郎こそが、日本の「モノづくり力」を世界に知らしめたパイオニアです。

(Mr.ソラン)

この記事の著者

Mr. ソラン 近影

Mr. ソラン

某自動車メーカーで30年以上、自動車の研究開発に携わってきた経験を持ち、古い技術から最新の技術までをやさしく解説することをモットーに執筆中。もともとはエンジン屋で、失敗や挫折を繰り返しながら、さまざまなエンジンの開発にチャレンジしてきました。
EVや燃料電池の開発が加速する一方で、内燃機関の熱効率はどこまで上げられるのか、まだまだ頑張れるはず、と考えて日々精進しています。夢は、好きな車で、大好きなワンコと一緒に、日本中の世界遺産を見て回ることです。
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